2017年08月31日

「山に聞こえる軍靴の音」 (2015.10月Tableタブル掲載)

 戦争法案が強引に採決された。これからじわじわと軍靴の足音が聞こえてくるのではと不安に思う人は、国会前や各地のデモを見てもかなりの数になるだろう。戦後ずっと平和で、戦争から遠いところにあったこの国が、である。せめて山奥に住んでいれば世の中の動向に関係なくのんびり暮らせるんじゃないかと、これから田舎回帰が始まるかも…なんて少しでもプラス思考に考えたくもなるけれど、しかしながらそうでもない。

 四国の急峻な山々に囲まれた私の住む村は、どこからも遠いからこそ残された自給的暮らしの知恵が残されていて、ささやかながら豊かな人の営みがある。人よりもサルやシカの数の方が多いけれど、渋滞はもちろん信号もなく、道のまんなかに寝転んで満天の星空を眺めることもできる。昼間聞こえてくるのは鳥の声と川のせせらぎ、ばあちゃんが畑を打つ音だけ…なはずなのに、実はこの静かな空をもう何年も前から米軍の戦闘機が低空飛行する。

 山より低い高度で飛ぶのでその爆音たるや凄まじく、小さい子どもは大泣き、ばあちゃんたちは「腰が抜けるわ」と驚いて、それが多い日には数回にもなる。ここは米軍の飛行訓練ルート「オレンジルート」にあたっていて、我が家の真上も操縦席の顔がわかるほど低い高度で飛ぶのである。機体を縦にしたり旋回したり、山のすぐ手前で急上昇したりと、高速なだけに事故になればたいへんなことになる。1994年高度150m時速800キロで低空飛行していた米軍機が高知県山中の早明浦ダムに墜落した事故も、このオレンジルート上での訓練中だった。

 アメリカでは戦闘機は住宅地の上を飛んではならない法律があるそうだ。だから沖縄でもアメリカ人居住地の上は飛ばない。理由は簡単、落ちたら危険だからだ。「は?」と思ったけれど、ああ、私たちはサル並みなんだなと妙に腑に落ちた。こうして米軍機が日本全国どこでも飛んでいいことを、安保の名のもと日本人が危険な目にあうことを、容認してきたのは日本政府だ。そしてその戦闘機は世界に飛び、罪なき子どもたちの上に爆弾を落とすのだ。

 戦後日本は本当に平和だったのだろうか。戦争と無関係だったのだろうか。沖縄ではずっと今まで米軍基地と隣り合わせ。辺野古や高江ではもう何年も体を張って強大な力と闘っている人たちがいて、今や島ぐるみで対峙している相手はアメリカであり日本政府である。中央から離れた見えないところで、軍靴の足音は確実に響き続けてきたのではないだろうか。

 でもいま、多くの人たちが自分のこととして関心を持ち動き始めた。辺野古で何が起きているか、福島に住む人たちはどうかと、見えない人たちに気持ちを寄せて考えるようになった。せめて強行採決というあの愚行を心に刻み、これを踏み台として政治=暮らし・命を自分たちの手に取り戻すために私たちは声を挙げ続けたい。そして戦争や権力集中に繋がるものを見極めて、選挙で誰を選ぶかはもちろんのこと、何を食べるか、何を買うか、どういう暮らし方をするかという小さいひとつひとつの選択をより慎重にしていきたい。じっと耳を澄ませて、破滅に向かう行進に巻き込まれないように、どこの誰の命も奪うことがないように。今、人としての生き方が問われているように思う。


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2017年08月27日

「命どぅ宝」 理解は力なり (2015年11月 Tableタブル掲載)

 「戦争法案」が強引に採決されたその日、私は沖縄にいた。訪れた伊江島は、美ら海水族館から見える小さな離島。伊江島(いえじま)の平和運動家として知られる阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんは、戦前から農民学校を作ろうと文字通り骨身を削って苦労したが、戦争で米軍にすべてを奪われた。それでも戦後も粘り強く非暴力・不服従で基地撤去を訴え、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」を建設し、訪れる人々に伊江島の土地闘争、現在の沖縄の闘いなどを語り続けてきた。阿波根さん亡きあと語り部を受け継がれている謝花悦子(じゃはなえつこ)さんは、ゆっくりと、怒りを押し殺して言った。「今の安倍政権がやっていることを、私はまったく理解することができません」。

 沖縄と言えばなんといっても美しい海、リゾート、観光、おいしいもの。USJができるという話もあって、観光客は今や国内に限らず海外からも続々と。まさにアジアの観光の要になりつつある。でも今、県外から続々と沖縄入りしているのは観光地だけではない。やんばる(沖縄本島北部)の美しい辺野古(名護市)の海を埋め立て、米軍の新基地を作る工事車両が出入りするゲート前。集まってきているのは高校生から老若男女、沖縄で今起きていることをまさに自分のこととして考え行動しようとする人たちだ。

 鳩山政権時ようやく本土メディアが取りあげるようになった「辺野古への基地移設計画」。でも普天間からの移設とは名ばかりで、さらに機能を追加し最新鋭の巨大基地を建設する基地の永久化に他ならない。沖縄県民は名護市長選、同市議選、沖縄県知事選、衆議院選そのすべてにおいて、強大な圧力に屈することなく新基地計画を拒否する沖縄県民の意思を明確に示してきた。それなのにその民意を「粛々と」と踏みにじり、今なお基地建設を強硬に進め、軍拡路線をひた走る安倍政権はいったいなにを守ろうとしているのだろうか。

 「阿波根は『理解は力なり』という言葉を残しました」と謝花さん。戦後も占領下となった絶望の中、阿波根おじぃは一人、奪われた自分の土地に入って木を植え続けたという。米兵に抜かれてもまた植える。くる日もくる日も、何本も何本も。よからぬ噂を広められ、島の人たちからも敬遠されたった一人になっても諦めなかったのは、島の外の人たち、そうでなければ沖縄県外の人たち、日本にいなければ世界のどこかにいる自分を理解してくれる人を信じたからだと。

 辺野古の問題は、沖縄の人たちに押し付けた私たちの問題であることをまずは心に刻みたい。そして沖縄の人たちに学び、理解できない現政権の暴走に次の選挙でストップをかけたい。日本唯一凄惨な地上戦が行なわれ、餓死、住民虐殺、戦時遭難船舶、集団自決などを含めると県民の4人に1人が戦没した言われる沖縄の、命(ルビ・ぬち)どぅ宝(命こそ宝)という言葉の重みを、私たちは心から理解したい。
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2017年08月09日

笑う!田舎暮らし 連載「旬の贅沢」

(コープ自然派Tableタブル 2009年3月号) 

 村の数少ない商店には、町のスーパーのように常時生鮮野菜が並んでいることはまずない。野菜はそれぞれ自分の畑で作っているので、たまに仕入れてくる野菜は季節外れのハウスものがほんの少し。菜っ葉類から芋、豆、夏野菜に至るまで、さながら畑はスーパーの野菜売り場のようだ。手塩にかけてばあちゃんたちが育てる野菜の味は、大量に栽培されるものとはまったく違う野菜のようでもある。ひとことでは表せないけれど、とにかくおいしく味わい深い。サツマイモをふかしたのをいただいたときも、それだけで和菓子のようなおいしさだった。気の毒だけど、店に並んだハウスものの野菜たちは肩身が狭そうだ。

 「野菜は旬のものを食べよう」と言われる前に、村には旬の野菜しかないので、絶対冬にキュウリは食卓にあがらない。夏の食卓に毎日毎食登場するキュウリもなすも、秋までが旬。冬には寒い季節に収穫される大根やイモ類など、身体をあたためる野菜が主流になる。当然、毎日同じ野菜が登場することにもなるけれど、その分いろんな調理方法を工夫したり、新しいコラボな料理が発見されたりして結構楽しいのである。野菜の他にも、柿やぶどう、梨やキウイなどの果物まで、驚くほどのレパートリーの広さである。

 今の季節は、ハクサイや小松菜、チンゲンサイ、ほうれん草やキャベツ、大根など、あらゆる菜っ葉類のトウ立ちの季節。寒い冬をじっと耐えて、あたたかいお日様にむかってにょきにょき背を伸ばした菜の花たちのオンパレード。旬の季節、春先だけの贅沢な味覚は、冬中にたまった身体の毒をおろすとか。

 売ってないから作るのか、作るから売っていないのか、自家用だからこその少量多品種栽培。なんとかこのおいしさを町にも届けたいもんだなあと画策していると、隣のばあちゃんが「もうジャガイモ植えたか?」−いえいえ、まだでした。村ではおいしい和菓子も当然売ってないけれど、今年は私も和菓子のようなイモを作るのだー! 「はよう、耕せよ」−はいはい。早く準備せねば、店では買えませんものね。
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笑う!田舎暮らし 連載「便利やけどあかん」

(コープ自然派Tableタブル 2009年2月号)

 「おるか〜。薪いらんか〜」とお隣のおんちゃんがやってきた。家の敷地内のケヤキの枝を切ったからと声を掛けてくれたのだ。

 山に暮らしていても、意外にも薪を揃えるのは一苦労。伐りだす手間も、運ぶ労力もたいへんなもので、重機に頼らざるを得ないことが多いからだ。マイ山など持っていない我が家などは問題外だが、落ちている杉枝を拾ったり、木を切りだした後の切り株をもらいに行ったりして、なんとか細々とお風呂を焚くための薪を確保している。時にこうして薪を提供してもらえるのはたいへんありがたく、「わお、いただきます〜」と即答。

 切ったばかりのケヤキは、枝といえどもかなり重い。こういう雑木の薪は、火力も強く、火持ちもいいので、少量でもかなりのエネルギーになる。これで春くらいまではあたたかいお風呂に入れそうで、もうおんちゃんに足を向けて寝られません。ありがたや〜。

 おんちゃんはケヤキを軽トラからおろしながら「やっぱ、薪の風呂はええだろ。熾きが残って湯が冷めにくいけん。ガスも電気もすぐ冷める。便利やけど、あかん」

 「便利やけど、あかん」−お風呂の他にも、村ではみんなが共通で持っているこの感覚。化学肥料を使わずいっぱい汗を流して肥料になるカヤ(ススキ)を刈るばあちゃん、いろんな種類の漬け物が店に並んでいようとも毎年どっさり漬け物を漬けるばあちゃん、わざわざ山から木を切りだして自力で小屋を建てるじいちゃん。ここでは少し前の、自然と共に暮らして来た頃のライフルタイルが今もそのまま残されている。

 今の時代、自分自身もたくさんの便利を享受しながら暮らしているわけだけれど、近頃の便利さには必ずリスクがつきものだ。でも、そのリスクを頭で考える前に、本物のよさを味や体感などで感覚的にわかっているからこそ、山の人たちは昔ながらの暮らし方を大切にしているんじゃないかな。肩肘張った環境論を振りかざすわけでない、すーっと身体に染みていくようなまさにナチュラルなほんまもんのエコライフ。

 いただいたケヤキの枝。長いままなので、これから鋸で適当な長さに切らねばならない。雑木は枝であっても切るのはとても時間も力も要る。よっしゃ、これでいっぱい汗かいて運動不足一気に解消! 山のじいちゃん、ばあちゃんのエコライフは、環境にも身体にもいいのである。
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笑う!田舎暮らし「ゲートボールと土砂崩れ」

(コープ自然派Tableタブル 2008年10月号掲載)

 村を突っ切る国道に、9tの大きな岩が落ちて来て全面通行止めとなった。丁度通りかかった車が岩に挟まれ、運転手は命はとりとめたものの大けがという大惨事。これまでにも土砂崩れはたびたびあり、台風のたび、大雨のたびに、どこか崩れないかと気にかかり、なるべく外出は控えようとするもののじっとしていては暮らしていけないので、「カミサマ、ホトケサマ、天国のじいちゃん、ばあちゃん!」とひやひやしながら道を通っていた。まったく人ごとではない。

 2年ほど前も、集落にほど近い国道で土砂が崩れて通行止めになった。迂回路はない。ちょうどその日、近所のばあちゃんたちがゲートボールの試合で町に遠征に行ったと聞いていたので、「あちゃ〜、ばあちゃんたち、帰ってこれんなあ」と心配していたら、夕方、近所のじいちゃんの運転する軽トラの荷台に乗って颯爽と帰ってきた。「崩れたところだけ山越えで歩いて、道の通れるところまで軽トラで迎えに来てもろた」と事もなげに話す。なんでも、歩いて通っていた昔の道が残っていることを知っていたからだと言う。言われてなるほど。はは〜、ばあちゃんたち、さすがや。若いモンなら絶対知らない情報であるし、そもそも「車が無理なら、歩けばいい」、という感覚が私たちの世代には断然欠けている。

 村内では交通事故よりはるかに頻繁にある土砂崩れ。一端崩れると1ヶ月も通れなくなることもあり、普段の生活の不便さはもちろん、急病人が出たときのことを考えると不安でしょうがない。それなのに、奥地であることでなにかと行政の対策も後手後手になり、復旧工事も遅々として進まない。今回の土砂崩れで奥の集落の代表たちが町へ陳情に行ったが、その解答のひとつが「崩れることは前から分っていた」−これには怒りを通り越してあきれてしまう。子どもたちも毎日学校へ通う道。いくら予算がないとは言え、命を守ることを最優先にすることになぜそんなに時間がかかるのだろう。

 因に、ばあちゃんたちが動員されたゲートボールの試合は交通安全週間の一環としての町のイベントだったらしく、なんともシニカル!? しかも優勝という好成績。賞品のトイレットペーパーは山越えには邪魔だったので置いて来たらしい。そのときはばあちゃんたちの強運と機転によってことなくすんだけれど、奥地に住む者としてはそんなイベントを開催する前に、道路の安全を確かめてから交通安全と言って頂きたいんですけど。

 あ、今回は「笑えない!田舎暮らし」になっちゃいました・・・。
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笑う!田舎暮らし「半農半XYZ・・・」

(コープ自然派Tabel タブル」2008.9月号)

 先日、とあることで新聞記者のインタビューを受けて職業を聞かれた。ん? 職業とな。ふ〜む、へたっぴながら自給用の畑もしているがそれですべての食材を賄っているわけでなく、いまだにいただく野菜の方が断然多い。雑誌や新聞に連載をさせてもらっているが、それだけで家族を養えるほどのものでもない。週2回ほど村民セクターの店にアルバイトに行っているが、山村留学にも関わっているのでフルで出勤できるほど時間的な余裕もない。

 他に、片手で数え足りないほど、いろいろ掛け持っていることに自分でもはたと気がつき、「ん〜、どの職業にしましょうかね〜」と、困ったのは若い新聞記者。「ひとつに絞らないとだめですかね」「そうですね〜…」。で、結局違う人にインタビューし直していた。

 「職業」とはなんぞや、と考えてみた。働いて、その報酬として現金を得ることならば、収入の総額から見て、一番額を高く得ているものが職業なのかなあ。でも、それを生業として位置づけられない自分もいる。

 田舎に住んでいると、お金にならない共同作業がたくさんある。祭の準備、お葬式の段取り、水の管理、寺の掃除やもちろんPTAのしごとも、みんな半端でない力の入れようである。時期にもよるが、現金を得るしごとより、そういった共同作業に充てる時間の方がはるかに上回ったりもするのだ。そしてそれが村の人たちとの大切なコミュニケーションの場であるのだから、お金を得るわけではないけれど、私としては一番上位に位置づけたいしごとでもある。

 そんなことを思うと、特に秀でた才能のない私は「半農半X」どころではなくXもYもZも有りで、まあ変数の多い事。それでもそこそこやっていけたりする。しかもどれも捨てがたい魅力のあるしごとであり、同時進行することで互いに影響しあって高めていくことができる、私的には実はどれも一つにつながったしごとなのだ。と、ここまで説明すると最後までじっくり聞いてもらえそうになりので、新聞記者さん、どうか私にはインタビューしないで下さいね〜。
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笑う! 田舎暮らし 連載「新種と在来種のコラボ」

(コープ自然派Tableタブル 2008.6月号)

  村に暮らして丸10年。この間、町から村に移住して来る家族が増えて来た。ありがたいことに、このタブルでの情報や連載を読んで来てくれた家族もある。

 田舎に魅力を感じ村に移住した人たちはそれぞれだが、やはり子育て世代が多いのは、最奥地にありながらまだ小学校が存続していることが大きい。学校の統廃合の進む過疎地にとって、小学生26人全員が徒歩通学というのは地元に小学校が残されている証だ。学校の行き帰り、村のじいちゃんばあちゃんが「大きいなったのう」と、子ども達を我が孫のようにあたたかく見守ってくれることは本当に有り難く、何ものにも換えがたい価値がある。

 そんな町では得難いものを実感している移住者組の母たちが、もっとIターンやUターンを募り村の子を増やそうという取り組みに加わることになった。生まれ育った地ではないけれど、今や全国的に小さな学校が廃校に追い込まれていることを考えると、なんとしてもこの子ども達の育つ恵まれた環境を守りたいと心から思うからだ。村生まれ組の若手たちと共に、どうすれば村をアピールできるか頭をひねる。

 この夏に予定している移住希望者対象の宿泊体験企画「山里ステイ」の内容を話し合いながら、村のシ(人)たちの「当たり前」を「へー、そんなことができるんだ!」と目を丸くする私も含む移住組の母たち。釣りにしても鉈さばきにしても、山で技無しの私たちには離れ業の一つなのだ。「へー、そんなことに驚くのか」と今度は村のシたちが驚いたり。もう驚きの応酬の中で、いろんなアイディアが生まれてくる。夕食予定メニューの「天然酵母パンと鹿肉と地元野菜のカレー」などはまさに新種と在来種のコラボが具現化したようなもの!? こうして新旧入り交じって、文字通り味のある面白いものが出来上がりつつある。「守りたいもの」を守るために、古きを大切にした新しい形は、移住者が増えて来たからこその成果であり、地元のシたちの魅力的な暮らしがそこにあるからこその成果でもある。こうして夏の移住交流事業計画は着々と進行中。

 子どもの声が響いてこそ、小さな芽を育てる大きな森のように、人という集合体として集落は生き生きと活気づく。「子どもは宝」−そんな言葉が当たり前に出てくるこの村に、来れ!田舎で子育て志願者。
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笑う!田舎暮らし 「KYよりDY」 

(コープ自然派Table タブル 2008.4月号)

トゥルルル、トゥルルル・・・ガチャッ「もしもし玄番ですけど」 
「いつ帰ってきたんじゃ?」
村の人からの電話は、いきなり用件から始まる。
「大阪行っとったんか」
えーっと、誰やったかなー・・・?
「玄関にハクサイ置いといたけんど、留守なようやったけん」
ん? ハクサイ? ・・・。そしてさんざん話を聞いた後ようやく、
「あ、アッコさんですねー。ああ、ハクサイ、ありがとう!」と私。村にきて10年、まだまだ「名乗らない電話」には慣れていない。「村人検定」などがあるならば、これはかなりの上級コースだ。たまに子どもが電話に出て用件を聞くものの、電話をきってから「誰だっけ?」。あとでみんなで推測する。「女の人? ばあちゃんやった? 早口やった?」。村の人同士なら声だけでわかって当たり前、なかなか話の途中で「誰でしたっけ?」とは聞きにくい。

 小さな村なのでみんな電話番号も似通っていて、たまに番号を間違えてかけてしまっても、「あれ? サトちゃんの声やのう。アキねえに掛けたつもりやったのに・・・まあ、ええわ。元気にしとるかー? そう言えば今度のー・・・」と違う展開にもなるそうだ。つながってるなあ、とほっこりするし感心もする。また、雪が降ったら「雪かきしたか?」、雨が降ったら「裏の山は大丈夫か?」と、ことあるごとに村の中でお互いの安否を気遣う電話ネットワークは防災無線より確かなものだ。「昨日家に電気ついとらなんだじゃろ。電話は面倒なけん、様子見に来たわ」と直接玄関先に現れる時も多い。

 近頃、国が要請した集落の自主防災会なるものが作られた。連れ合いが班長になったので、お触れどおり隣組の電話番号を確かめたり、不在の時の連絡先などを聞きにまわっているが、「なんやこれ、すでにみんなお互いにわかってることばっかりやな」とぶつぶつ言いながら近所を回っている。過疎地だからこそ、お互いを気遣う気持ちが結局は防災意識につながっているのだ。山に暮らしていて何かあったとき大丈夫か、災害のときどうするのか、と心配されたりするけれど、こんな隣近所とのつながりがあるから、私自身は町に暮らしていた時よりも安心感がある。

 そういう意味では、村の「名乗らない電話」リストはいのちのリストでもあるわけだ。はやく私も名乗らずとも話のできるネイティブに近づきたいものだ。一歩間違えば「オレオレ!」電話に引っかかってしまいそうだし。ここではKY(空気が読めない)よりDY(誰だか読めない)のほうが断然困るのだ。
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笑う! 田舎暮らし 連載 「寒の餅」

(コープ自然派Table タブル2008年3月号)

 「ああ、しまった、今年も寒の餅がつけんかった」。気がつけばもう3月。いや、でもまだ今年は寒い。ひょっとして「寒」のふりしてへぎ餅(かきもち)もできるかも、などと淡い期待を持ってアキ姉に聞いてみた。「ほれがあかんのよ。寒について干した餅は、何年たってもカビがはえんし長持ちする。けんど、今から作ったへぎ餅は、知らん間にホリ(コクゾウムシ)に食われて無くなってしもてる」。あちゃ〜、遅かりし。

 「寒」の季節というものを、村に来てから強烈に意識するようになった。それまではお恥ずかしいことに、寒の入りのニュースを聞いては「あ、寒いんやなあ」くらいの文字どおりサムい感想を持ったくらいで、そもそも1年のうちのいつごろなのかまったく興味もなかった。それが実はこの「寒」というのは、1年のうちでも特にミラクルな季節なのだと、村のじいちゃんばあちゃんの暮らしの中から教わった。

 先の「寒の餅」、このあたりでは寒に入ると餅をついて薄く切り、干して乾かし保存する。「おへぎ」と呼ばれるこの餅は、焼いたり揚げたりして1年中重宝するおいしいおやつになる。毎年作ろう、作ろうと思いながら、ついつい忘れて3月に入ってハッと思い出す。干した餅がカビずにすばやく乾けばいいのなら、十分に気温が低ければちょっとくらい時期がずれても・・・と、のんきな素人感覚で思ったわけだったが、やはり考えが甘かった。なんで? なんで寒の餅はそんなに保存がきくんだろう? 「さあのう、水が冷たいけんかのう。やっぱり『寒』は『寒』だけある」とアキ姉。

 そう言えば、ヒロ姉も寒の季節の水をわざわざ瓶に入れてとっていた。「寒の水は腐らんけんのう。味もやっぱ違うような気ぃするぜぇ」と。毎日何気なく飲んでいる水も、その時期によって味や成分が違うのは思えば当たり前なのかもしれない。その中でも「寒の水」というのは、水温が低いということだけなのだろうか。

 水だけではない。畑でもその頃に蒔いて育った菜っぱ類は、春が来てもトウ立ちが遅く、虫にも食われにくいという。また、寒に一度田んぼを耕しておくと、稲の発育にもいいらしい。いったい、私が寒い寒いとコタツでまるまっているうちに、自然界のミクロな世界ではどんなミラクルがおきているのだろうか。興味は深まるばかりである。どなたかご存知でしたら教えていただきたいのですが・・・。

 かくして、今年も寒のへぎ餅が作れずに春を迎えてしまった。すっかりしょげていると、アキ姉が納屋から四角い缶をもってきて、「去年のじゃけんど、持っていけ」と中からへぎ餅を取り出して袋にどっさり詰めてくれた。「ありがとうございます。来年は忘れずに作ります!」。「はっはっは。去年もそう言うとらなんだかー?」。おっと、鋭い。来年こそはカレンダーに太字で「寒」としっかり書き込んでおかねば。節分を過ぎてまたオニに笑われないように。
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笑う! 田舎暮らし 連載 「畑de化学!?」

(コープ自然派Table タブル 2008年2月号)

 あれは忘れもしない、移住してすぐの秋。近所のばあちゃんが、剪定した柚子の樹の枝を集めて燃やし、その灰を大事に袋に詰めていた。何に使うのか聞いてみると、「ほうれん草を蒔くところに鋤き込むんじゃ。石灰をまいたりもするけんど土が堅うなるけん、灰がいちばんええ。種を蒔いた後は、シートで覆うんじゃ。このごろは雨が酸性やけん、雨にあたらんようにな。」

 私は高校時代化学が苦手だったけれど、目の前でばあちゃんがこんなインパクトのある化学の授業をしてくれていることに、驚きもし感動もした。ほうれん草は酸性に弱い。酸性の土を灰のアルカリ性で中和し、さらに酸性の雨を防ぐためにシートを掛ける。ばあちゃんたちは、野菜など作物を作る経験から、酸性雨のこと、環境の異変のことを何もかも肌で感じて知っているのだ。それに、学校の授業では石灰と灰の違いなど習うことはなかった。ばあちゃん、すげー! と思った。

 あれから10年経つけれど、そんな驚きはほんの一例。芋や椎茸はお日様に干したら甘くなり、竹は春に切ると虫が入って使い物にならない。木を山から切り出すために使うワイヤーは、複雑に滑車を組み合わせて、最小限の力で重い木を運ぶことが出来るようになっている。ばあちゃんは、くたくたに炊いたコンニャクイモに広葉樹の灰で作った灰汁を混ぜて、ぷりぷりのこんにゃく玉を作り、じいちゃんは、小屋を作るとき屋根の勾配のややこしい計算をものの数分で暗算し、炭焼きではどのくらいで空気を遮断すればいい炭になるかを知っている。

 こんな風に毎日、自然界の法則が入り込んでいて、否応なくその影響に左右される山の暮らしがある。私が赤点すれすれでひーひー苦しんでいた学校での化学が、物理が、数学が、当たり前に村の人々の了解事項となっていて、また目の前で人の手によって鮮やかに実験され、時には試行錯誤のすえ証明される。ただ学校と違うのは、その実験が目的ではなく、暮らしていくための「衣食住」が到達点だということだ。

 私もここでじいちゃんばあちゃんに密着して暮らしていたら、もっともっとおもしろく、身近に、化学や数学を学ぶことができただろうなあと思う。結局あんなに苦労して覚えた化学式が私の場合いま何一つ役に立っていないわけで・・・。もちろん細かく数値化し分析し、さらに内容を深めて未来を予測していくのが学問なのかもしれないけれど、自分が暮らしていく上で知らなければならない本当の勉強ってなんだったのかな、と。

 去年の12月、畑を貸して下さっているばあちゃんがエンドウの種を蒔いていた。「このごろは冬もぬくうなって、温暖化っちゅうんか。昔はエンドウは年明けくらいにまいとったけんど、ちょっと早い目にまいてみよう思うて。毎年畑の研究しよる。はっはっはー」とかわいく笑うばあちゃんは今年82歳。おそるべし、ばあちゃん科学者は今なお現役で研究し、未来も予測している!
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「人と自然に育てられる」

(コープ自然派Table タブル「子育て特集号」 2008年1月号)           

 私はお世辞にも、一貫した子育て道を実践しているわけでも、立派な子育て論を持っているわけでもない。毎日、二人の子どもの言動に一喜一憂したり、些細なことにいらいらしたり、自己嫌悪に陥ったり。子どもの成長に関して人並みに悩み、どちらかというと、子育ての相談にのってほしい側だと思う。だからこそ、私は子どもが「田舎で育つ」ことを選んだ。

 10年前、大阪から徳島の最奥地、木頭村に家族で移住してきたとき、娘たちは5歳と0歳3ヶ月。ここには塾もなければゲームセンターもカラオケもない。あるのは全校で20人程度の小さな小学校と小さな商店が2軒、あとは胸が透くような清流と深い山々、そして元気で温かい村の人たちだ。

 ゆったり流れる時間の中で、予定に追われることなく、お金の使い方に気をもむ必要もない。野に咲く花をどれだけ摘んでも、大きな声ではしゃぎながら道の真ん中を歩いても、川で遊んで濡れたまま帰ってきても、あれこれ細かいことを言わなくても済む。子どもに子どもらしいことをさせてやれる開放感といったらない。子どもたちは、遊びきった顔で「ただいまー」と帰ってくる。これもまたいい。子どもはもちろん、晴れて私もストレス知らず。

 また、自然と向かい合って生きている山のじいちゃん、ばあちゃんたち大人を見て成長できることも嬉しい。畑仕事にしろ山仕事にしろ、木や土、水を巧みに利用する技術は、ため息が出るほど見事ですばらしく、不甲斐ない私の口先だけでの一言より、はるかに説得力がある。ゲームとも携帯電話とも無縁の我が子たち、ゲームの攻略法は知らなくとも、ばあちゃんの作った干し芋がどれほどおいしいか、じいちゃんの焼く炭が、どれほどの時間と労力をかけてできたものかを知っている。

 そんなばあちゃんに畑で大根をもらってきたり、軒に吊るしてある干し柿をもらったり、餅をついたからと持ってきてもらったりと、子どもたちは人の温かさを何の先入観もなく素直に感じて育ってきた。10年経って、村のじいちゃんばあちゃんは「大きいなったのう」と、我が孫を見るように目を細める。「子どもは宝じゃ」−ここに来てすぐ、聞いた言葉だ。本当にありがたいことだと思う。私は、ここの自然とここに住む人たちに子どもたちを育ててもらったと思っている。

 たとえ子ども時代のひとときでもいい。誰にも干渉されず自然の中で思い切り遊び、驚き、ときに自然は圧倒的であることを知ること、その自然を巧みに利用して生きている人に触れること、また自分たち子どもが愛されているという感覚がどれほど大切か、これまでに共に暮らした山村留学生(注・地元の北川小学校では町からの山村留学生を募集しており、私はスタッフとして関わっている)たちを見ていてもしみじみ思うことである。「木頭で暮らした1年が私の原動力だ」と成人した元山村留学生たちは言う。子どもというのは常に成長し、またゆっくりでも、蓄えた子ども時代の経験を糧に成長し続けるものなのだと実感する。

 子どもたちだけではない。私自身も、ここでの暮らしにどれほど感動してきたことだろう。それはあらゆる生命の力や美しさだったり、人の温かさや強さだったり、生きる力だったり。枯れ葉を集めての焼き芋や、ドングリ拾いや野いちご摘みに暗くなるまで夢中になっているのは、実は私の方だったりするわけで、育ててもらっているのは子どもだけでなく私も、なのだ。高度成長期以降の「便利な」時代に生まれ育った私は、思っている以上に根本から何も知らないことも痛感した。この小さな山村には何もないけれど、今、子どもや親の世代である私たちが必要としていることが何でもあるように思うのだ。

 効率やスピードばかりを追ってきた結果いびつに発展した社会。でも、少し下がって田舎から町を、社会を見てみたら、何らかの解決法が見えてくるようにも思える。歪んだ社会をこれから修正していかねばならない今の子どもたち、いや、大人だって遅くない。心身ともに足腰を鍛えるためにも、「田舎で育つ」ことを是非、オススメしたい。
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笑う! 田舎暮らし 連載「スローライフは忙しい」

(コープ自然派Tableタブル 2007年12月号)

 11月に入ると霜の降りる日が多くなる。四国といえどもここは標高470m、冬の寒さはなかなか厳しい。霜で野菜が萎えてしまわないうちに、里芋を掘り、柚子を採り、大根を漬け物にし、天気の良い日は豆を干して選り、ズイキ(里芋の茎)を干し、サツマイモをゆでぼし(干し芋)にし・・・収穫の秋はすることのあれこれほんとに多いこと。

 私が「ああ、秋の空は青いなあ」とか「あれー、いつの間に紅葉がこんなに色鮮やかになったんだ」とか、空や景色に見とれているうちに、着々と来る冬のための食糧の備えをすませる村のじいやばあたち。いったい山の人たちは本当に1日が24時間なのかと疑いたくなるほど、この時期にありとあらゆる作業を片付けていく。私とて決して時間を無駄にしているつもりはないのだが、どうがんばっても追いつけない。おっと、じいたちは冬に向けて薪の確保を始めている。急がねば、と私は焦るばかり。

 山の人たちと私、なんでこんなに違うのか。豆を選りながら考える。仕事の能率はもちろんだが、何かが違うのだ。「子どもの頃から畑やら炊事やら手伝わなんだら、飯も食わしてもらえなんだ。薪を負うてくるとき薪が肩に食い込んで、足も冷たいやらで辛かったこと」−じいやなばあたちの、自然と真剣に向き合ってきた歴史が、軟弱ものの私などとは到底比べ物にならないのは、一つの大きな違いだと思う。季節季節の作業が身体に染み付いているからこそ、一つの作業をしながら次の作業の手順を考える余裕。私みたいに、豆を選り終ったら終ったで「ちかれたび〜」と脱力してしばらく動けないようでは話にならない。「やりそめとらん(やり慣れていない)けん、しょうないわだ」−ばあたちはそう言ってにこにこと励ましてくれるが、きっと私たちのしていることは、ばあたちのままごと程度なのだろうな。

 よし、「やりそめていない」ことは「やりそめる」まで経験を積もうではないか。今年で移住10年目。ここに来たとき0から始まったと考えれば、わたしはまだ10歳の子ども。まだまだ覚えることもばあたちから学ぶこともたくさんある。来る食糧難の時代に備え、いつぞや私も、じいやばあたちの域にまで達することができるように。とりあえず、まずは軒の下に掛かったままの麦の穂を早く脱穀せねば、もう麦蒔きの季節となってしまった。まだ黒ごまもササゲも選らねばならんし、いったい年内に口に入るまでになるのだろうか。ああ、スローライフは本当に忙しい。
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2017年08月08日

連載  笑う! 田舎暮らし   「スローな道具たち」

(コープ自然派Tableタブル 2007年 11月号)

 完全な自給自足的暮らしには到底及ばないけれど、あれこれ野菜や穀物を作って、ときには虫たちに、ときにはおサルたちにたいらげられながらも、自給率を上げる努力はしている。やっぱり主食は何とか作りたいなあと思うものの、山では耕作面積が少なく田んぼは難しいので、米は断念。畑でもできる大麦を少しばかり作っている。

 もちろん自家用で収量も知れているが、少ないながらも脱穀や籾すり、精麦など、一通りの行程は必要だ、ということに収穫してからハッと気づいた。実は、そういう作業の方が手間も暇もかかるのだ。機械を貸してもらうほどの量でも出来でもないので、はて、どうするか? 早速近所のじぃちゃんに相談に行くと、さすがは機械のない時代のプロフェッショナル。納屋から出してきたのは、おおっ、これぞ歴史の教科書に載っていた「千歯こき」!? 「こうやって使うんじゃ」と見本を示してくれる。なるほどやってみると、うまい具合に脱穀が出来る。面白いのであっという間に脱穀終了。

 さて次の段階、籾すりである。昔は家々の庭のすみに備え付けの手動式籾すり機があったらしいが、そればかりはどこにも残っていないということで、木の鎚でひたすら叩いて籾を麦からはずした。「よう、乾いとらんと、うまく籾がとれんぞ」という言いつけを守ってしっかりお日様に乾かしておいたので、これまた面白いほど効率がいい。

 そして次は、籾と実をより分ける「唐箕」登場。これまた、歴史の教科書で拝んでいただけなのに、今この手で実際に使ってみることができるなんて! 手でレバーを回して風を送り、軽い籾や芒は飛ばして、鮮やかに実だけを取り出せる。これは本当にすばらしい! 当時もよほど画期的で、仕事の能率を急速にアップさせたありがたい器械だったのだろう、唐箕はどこの家にも今も大切に保管されている。

 これで「玄米」ならぬ「玄麦」のできあがり。次はいよいよ精麦だ。水車で精麦していた以前に使われていたという「踏み臼」は、人がてこの原理で足で踏んで杵を上げ下げし、精麦する。トン・・・トン・・・トン・・・と、リズミカルに踏む音がなんとも心地よい。その昔はこの踏み臼で穀物を搗くことを「おいもん搗き」とも言い、おなごシたちが赤ん坊をせおいながらの大変な労働の一つだったらしい。今や私はジャージ姿で軽快に、軽い運動靴なんかでひょい、ひょい、と踏んでシェイプアップも期待しながら・・・。すっかり軽スポーツ感覚で、申し訳ない気持ちにもなる。今のように機械で精米すると、米に熱が加わって米の味が落ちるのだそうだ。その意味で、このスローな精米(麦)機はまさにゆっくりゆっくり、米や麦の温度も上がらず旨味が保たれるということになる。

 さて、ガソリンも電気も使わず、手間と暇だけをたっぷり使ってようやく食べられるようになった麦。これは究極のスローフードや、もったいなくて食べられん!? と浮かれる私を、にこにこ見ているじいちゃん。所詮私がやっていることは、じいちゃん達から見ればままごとみたいなものだけど、スローな道具のすばらしさと、それらを使ってきた時代の人々の知恵と工夫が時代を越えて受け継がれていくためには、時にままごとも必要か、と思うわけであります。
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連載  笑う! 田舎暮らし  「おサル」

(コープ自然派Table タブル 2007年10月号) 

 夏の出来事。「うちのはたけがたいへん さるにほられた(いも) さきにいってるよ じゃあ」。外出から帰ると、玄関に娘の書いた置き手紙が。「あちゃ〜っ、やられたか〜」。急いで長靴はいて畑へ急ぐと、先に来ていた連れ合いと娘が荒らされた畑で、抜かれたサツマイモの苗を植え直していた。

 「あ〜あ、まだ芋ついてないのに〜」。片っ端からサツマイモの苗は抜かれて、見るも無惨に踏み荒らしてある。ネットで覆いもしていたのに、くやし〜。まあよく考えればサルは手先も器用だし人間より力もある。ネットくらいやすやすとくぐり抜けるし引きちぎることもできるのだ。それでも発見が早かったので、その日遅くまでかかって植え直した芋はその後なんとか持ち直した。

 このごろのサルは賢いらしい。山の上に住むばあちゃんが、よそ行きの服を着て家を出るとたちまち畑が荒らされるそうだ。「ありゃあ、留守になるんがようわかっとるんじゃ」とばあちゃん。畑の野菜だけではない、カキやスモモがちょうど食べごろになり、「明日採るか」と思っていると、その日のうちに盗られてしまう。軒に干してある干し柿でも大根でも、ひょいっと盗っては小脇に抱えて堂々と吊り橋わたって帰っていく。「わしら、おサルさんの残りもんもろうて食べとるわ」とばあちゃんは苦笑い。

 ここ近年、サルだけでなくシカ、ハクビシン、キツネの獣害もひどい。「山に食べるもんがないんじゃろ」と山のシ(人)たちは言う。「昔は実のなる木がいっぱいあったんじゃがの。わしらも子どもんときは山行っては山栗だのケンポナシだの、採ってきては食べたけんど、今あ、ほれ」と、取り巻く杉の山々を見上げる。拡大造林計画の杉山もしかり、タヌキしかいなかったタヌキ王国四国に、ウサギを駆除するキツネをいれたのも人間なのだから、すべてはつまり、自然のしっぺ返しなのかもしれない。

 しかしながら、おサルさんたちのためにせっせと畑仕事にはげむほど、私は人間ができていないので、これから収穫を控え、万全の体制で野菜を守らねばならない。サツマイモも収穫間近、黒大豆も膨らんできた。これまで周りだけ覆っていた防除ネットを上部にも、手が入らないように目の細かいものを、すぐ破られてしまわないよう丈夫な素材で。そうなるとネット代もバカにならない訳で…。相当高いイモにつきそうだ。水、食べ物、空気、すべてにおいて言えるかも。人間の傲慢は結局はリスクの方が大きくなる。
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連載  笑う! 田舎暮らし 「お盆はBack to the Future!」

(コープ自然派Tableタブル 2007年 09月号)

 大阪から四国の山村に移住した私たち、お盆の里帰りは田舎から都会に帰ることになる。Uターンラッシュに逆流するため、渋滞や満席とは無縁でラッキー…でも、田舎の時間・空間に慣れてしまったので、駅や町中の人混みですらかなり苦痛ではある。

 それでも今年も気合いを入れて里帰りを決行。苦手な雑踏を何とかクリアして、ようやく子どもたちも楽しみにしているばあちゃん家(私の実家)に到着。私はよれよれになりながら「たらいま~」と倒れ込む。「まぁ~、大きいなって」と、ばあちゃんこと私の母は孫達の成長ぶりに目を細める。

 久しぶりに会ってひとしきりしゃべってから、「さ、御飯にしよか」と母が台所に消えたかと思うと、「ピッ、ピッ、ピー」となにやら電子音が。「何? 何?」と行ってみると、ガス台だったはずがHI調理器になっている。「えー、いつの間に! 電磁波危ないで…」と私が言いかけると、また別のところで「ピー」と鳴っている。ポットでお湯が沸いたらしい。次は「ピッ、ピッ、ピッ」と電子レンジ。何を手伝えばいいのかわからず子どもと共に食器運びを担当。相変わらず部屋のどこかで電子音が鳴る中で、久しぶりの母の手料理はHI調理器だけれど懐かしくおいしかった。
 
 さあ食器でも洗うかと石けんを持つと、「食器洗い機があるから」と母は私を押さえ込む。きれい好き(?)な母は一度食器を洗ってから食器洗い機に入れて、またもや「ピッ、ピッ」。「それって意味ないやん」と私は心の中で思うが「きれいになるんよ、これが」と誇らしげな母を見ると口に出せない。使い方を聞こうとしたが結局「あんたにはわからんやろ」と、滞在中一度もさわらせてくれなかった。

 お風呂ももちろん「ピッ」と指一本で湯が入る。昨日まで、薪を割って風呂を焚いていた暮らしが一気に「文化的」になり私はする事がなく、おかげでのんびりはできた。十分遊んでゆっくりして、そんな中でも母はインターネットでなにやら検索、父はデジカメで孫の写真を撮り即座にプリント。
 
 帰り際、「あんたのつくった梅干しおいしかったわ。また今年のできたら送って」と母。「へい、へい」と返事をして、再び雑踏をくぐり抜け山に帰ってきた。まさにBack to the Futureな盆休みであった。畑のトウキビを炭火で焼きながら、忙しくて延び延びになっているかまど作りのことを考える。早くしなくちゃなぁ。そうそう、近所のばあちゃんに、麦を脱穀する昔の器具を貸してもらうことにもなっている。麦を脱穀したら炒ってはったい粉にしてみよう。山の夏ももう終わり。畑の秋の収穫が待ち遠しい。里芋に落花生、黒豆にサツマイモ、はったい粉も入れて梅干しと一緒に母に送ろうかな。
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連載  笑う! 田舎暮らし 「ハミ(マムシ)も山の恵みなり」

(コープ自然派Tableタブル 2007年 8月号)

「あ、ハミ(マムシ)や!」
それを聞いて、私はぎゃーっと逃げる。山の人(ルビ・シ)は、「よっしゃ」と捕まえに行く。この差は大きい。捕まえられたハミは生きたまま焼酎漬けにされるのだ。山の暮らしはとても魅力的で、山のじぃやばぁたちがやっていることは一通りトライしてみたい私だけれど、ハミだけはどうも…。
 
 とはいえ、ハミもスズメ蜂もひっくるめての山暮らし。まったくそれらに出会わずに過ごすことなんて不可能だ。夜、玄関先でハミに噛まれたなんて話も聞くので、夜はなるべくサンダル履きはやめるとか、スズメ蜂なら素早い動作をしないとか、居るのが当然と考えて行動するしかない。

 先日、「今からハミ持って行くけん」と、近くのおっちゃんから電話があった。数分後、おっちゃんが一升瓶に入った元気なハミを持ってやって来た。瓶には半分ほど水が入れられ、このまま2週間ほどおいてお腹の物を出させるという。瓶の中にいるとはいえ、そのふてぶてしい顔つきと毒蛇の威厳、隙あらば逃げ出してやろうという狡猾そうな目つきに、すっかりびびる私。「子どもにも、本物をよう見せとかなあかん」とおっちゃん。子どもらも興味津々、でもちょっと顔を引きつらせながら「うわぁ~…」と見入っている。「これ、やるけん」とおっちゃんはその目つきの悪いハミをおいて帰っていく。

 それから2週間、生きたハミが家にいる、というだけでドキドキしている私たちに、その生命力を見せつけるように瓶の中で子どもを2匹産んだ(ハミは卵を産まないのだ)。何かちょっと感動…。でも、子ハミでも噛まれたら猛毒らしい。

 餌を食べずに少し弱っているとはいえ、母子ともに元気なまま、次は水を捨てて焼酎で漬けなければならない。このときよく噛まれるらしい。山の暮らしの登竜門、一度はチャレンジを、と張り切る連れ合いだが、家族の猛反対を受けてやはり断念。「すみませ~ん」と焼酎とハミ入りの瓶を持って近所の名人にお願いに行った。名人の手に掛かって、文字通り浴びるように焼酎を飲んだハミはようやくご臨終、つい手を合わせてしまう。

 数年熟成させたハミの焼酎漬けは、飲んでもちろん切り傷などの外用にもよく使われてきたようだ。その身も焼いてあぶって食べたら強壮剤にもなり、そこそこおいしいらしい。そういえば、捕まえたハミを目の前で割いて肝をそのままぱくりと食べてしまったすごいじぃもいて、そのじぃは朝から木を伐り薪を割り、日中は曾孫とキャッチボールをする。すごいパワーだ。ハミというと嫌われ者のようだけれど、山の恵みの一つともいえるのだ。

 我が家の台所にひっそりと眠るハミ焼酎。何だか生き返ってきそうな気がして厳重に蓋をしてある。私はまだまだ、ハミを追いかけて捕まえる域には到達しそうにない。
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笑う! 田舎暮らし  「青い空と釜炒り茶 」

(コープ自然派Table タブル連載 2007年6月号)

 5月に入ると、青空の下、山の斜面のあちこちで麦わら帽子が見え隠れ。お茶摘みの季節だ。山のばあちゃんたちは、自分たちの家で飲む1年分のお茶をこの時期に摘む。手摘みなので茶の木自体の大きさをそろえる必要はなく、それぞれ思い思いに枝葉を伸ばしているのが山の茶らしくていい。

 我が家は毎年、近所のばあちゃんちのお茶の葉を摘ませてもらっている。「家族も少のうなって、こんなにいらんのよ」「今年は日和が続くけん、お茶がよう干せてえぇわ」、そんなばあちゃんの話を聞きながら、柔らかくつややかに伸びた新芽をぷつんぷつんと摘みとっては、腰につけた竹篭に入れていく。ばあちゃんたちは、そこに茶の新芽がある限り、天気が続く限り、えんえんと数日間茶摘みを続けるのだが、軟弱モノの私と連れ合いは半日も摘んでいればまいってくる。気持ちのいい作業だが、ばあちゃんたちにはかなわない。

 茶摘みの次は、釜で炒る準備だ。このあたりでは「釜炒り茶」*といって、摘んだばかりの茶葉をそのまま大釜にどさっと入れ、薪を炊いて炒りあげるのだが、この火加減がなかなか難しい。今年も例年どおり、「火が弱い!」「おー、熱すぎる!こげる〜!」と、大騒する私たち。いつになったら慣れるのか? 熱いし煙は目にはいるし、中腰での作業なので、汗やら鼻水やら釜に落ちそうになるところをなんとかくいとめる。でもちょっとは入ってる、きっと・・・。 

 それでもなんとか一面香ばしい香りが漂い、茶の葉同士の水分でしんなりしてくる。次はムシロに移して熱い茶の葉をひたすら揉む作業だ。全体重をかけて、揉んで揉んで揉んで・・・。釜炒りと同様、汗の吹き出る作業である。熟練したばあちゃんたちがすると簡単そうだが、やってみるとそううまくいかない。茶葉がぼろぼろと手からこぼれ落ち、「あらっ、あららっ」と、もたもたしているうちに冷めてしまう。これもまた、例年通り・・・。

 茶葉が細くよれると、今度はムシロに広げて丸1日お陽様に乾かして出来上がり。この季節はどこの家でも、五月晴れに茶葉が庭先に干されていて、なんともほっとする光景だ。

 その年、その年の気候や茶の木の様子によって、その年ならではの茶の味があるという。また、茶の炒り方や揉み具合によって、それぞれの家庭の茶の味がある。自家用のお茶を作るー都会に住んでいるときは考えてもみなかった。今年も我が家は、手際が悪く、未熟ななりの「我が家の茶」。さ、原稿を書く手を休めて一服。ふ〜っ、うまいんだ〜、これが。

*釜炒り茶は、四国の山間地と九州のごく一部にしか残されていないそうです。
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笑う! 田舎暮らし 「こんな不器用な私でも」連載第一回 2007年 04月 01日

(コープ自然派Table タブル 2007年4月号)  

 大阪から家族で徳島県木頭村(現・那賀町)に移住して9年目になる。いわゆる私たちは、町を出て小さな村に暮らしている「Iターン」家族。当時それぞれ5歳、0歳3ヶ月だった娘たちも、中学1年生と小学2年生になった。村のじいやばぁにかわいがってもらい、すっかり「山の子」生活を満喫している。

 今、「スローライフ」や「田舎暮らし」に関する雑誌や記事が巷に溢れている。そこには衣・食・住を完璧に「自給自足」しているすごい人たちが登場し、また、染色や陶芸など自分の技術を活かして、ゆったりと田舎の時間を楽しんでいる人たちが、逆光に照らされ天然色系の調度品の中でかっこよく雑誌の表紙を飾っている。本当にすてきだと思う。 

 それに引き替え、特別な技術も芸術的なセンスも持ち合わせていない私たち。完全な自給自足を目指しているわけでもなく、農業でやっていこうという根性もない。とにかく暮らしていく上での必要性と、興味の赴くままに、村のじぃやばぁたちの暮らしを何でもかんでも見様見真似でやってきた。畑、保存食、炭焼き、小屋作り…不器用な私たちはいまだに失敗することのほうが多いし、やることなすこと遅れをとる。隣のばあちゃんが梅を漬けていたら、あわてて籠を引っさげて梅を採りに行く。やっと作ったタケノコの塩漬けもなかなか食卓にあがらず、その内また新鮮なタケノコの季節になってしまったときもある。我が家の「田舎暮らし」は一年中どたばたしていて大失敗と大失笑の連続、どう見ても雑誌のカラーページを飾るほど美しくなく、どちらかと言えばギャグ漫画のコーナーだ。

 でも今、この小さな山村での暮らしが楽しくてたまらないのだ。そう、笑える田舎暮らし。毎日何かに笑っている。それは自分たちの失敗だったり、村のじぃやばぁとの楽しい会話だったり、山の子どもたちの純朴さだったり。私たちは決してお手本になるような田舎暮らしではないけれど、不器用なりの楽しさをこの連載で少しでもお伝えできればと思っている。これから田舎暮らしを考えている人も、全く興味のない人も、どうか一緒に笑ってくださいませ。
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2017年08月05日

「飯盒と電磁調理器」

(「田舎暮らしの本」宝島社 連載 2004年12月号)

「もう、わしが戦争に行って来た証は、これ一つしか残っとらん」と、キク兄が古びた飯盒を出してきた。第二次世界大戦。キク兄は22歳の時、召集令状で四国連隊としてビルマに派兵され、最も厳しい戦況のなか生き延びて現地で終戦を迎えた。内地からの食料も生活物資も途絶えてからなお、ジャングルの中を1年あまり背走した話は聞くだけでもすさまじい。

 食べるものは現地で調達したわずかな米、時にはジャングルの植物や小動物。キク兄の話を聞いて、何とか同じ状況にいる自分をイメージしようとするのだが、想像することすら到底無理。まず雨期のジャングルで火を熾すことからできるはずもない。

 でも、いま私の目の前にある飯盒が、キク兄の命をつないだ道具なのだと思うと、資料館で見たりするそれとは違うリアリティーをもって「戦争」というものが迫ってくる。

 「まぁ、わしらは田舎モンじゃったけんど、ああいうところでは山での経験が役に立ったのう。野生のこんにゃく芋でこんにゃくも作ったし、毒蛇も捕まえて食べたもんじゃ。ハミ(マムシ)もそうじゃが、毒のある蛇はうまい。腹を下した仲間には、竹の黒焼きを煎じて飲ませたこともある。戦争も終盤頃はイギリス軍の攻撃から逃げて河を渡るんじゃが、竹を切って筏を組むにも、縦に割れんようにする切り方がある。縄も竹をうすく剥いで綯ってこっさえる。都会から来とったもんは、だいぶ苦労しとったのう。よう手伝うてやった」。砲弾で撃たれるより、病気や飢え、河を渡れず流されて亡くなる人が多かったというビルマ前線。キク兄がよくぞ生き延びて帰ってきたそのわけは、山人の知恵と忍耐力が大きな要因だったんだと改めて感じ入る。


「飯盒と隠居の家」


 敗戦後キク兄の持ち帰ったその飯盒は、後の山仕事でも活躍した。奥山で木を切り出したり、焼き畑をしてヒエやアワを作るため、何日も山に泊まり込むときに重宝したそうだ。「飯盒で炊く飯は格別うまいもんじゃった」

 戦争という、人が人を殺し合う「非日常」で使われた飯盒が、今度は生きるための「生産」の場で再び使われる。炊いたご飯の味もさぞかし違ったことだろうと感慨深い。

「山の仕事も無うなってからは使わんようになったけん、もう今はしまい込んであるけんど、まぁ、生きているうちは残しておこうと思う」

 使い込んで焼き切れたという飯盒の持ち手は、戦地で見つけた銅線で作り直され、丈夫に美しくリメイクされている。底の部分も薄くなってはいるが、まだまだ現役で使えそうだ。

 キク兄と運命をともにした飯盒を写真に撮らせてもらっていると、お連れ合いのウヂヲさんが汗を拭き拭き顔を出した。「こんなもんを見てくれるんは玄番さんくらいじゃ。けんど、ほんなに写真撮って、写真がもったいないわ、はははっ」 。

 この日はちょうど、町に住んでいた息子さん夫婦が定年を迎え、引っ越して戻ってくるというので、朝から所帯道具を隠居の家に運んでいたのだった。この辺りでは、隠居制度といって、息子か娘が結婚すると、母屋を譲り渡し同じ敷地内か近くにある隠居の家に移り住む慣習がある。

 その飯盒も、荷物を運び出しているときに何十年ぶりに表に出てきたというわけだ。


「次の世代に伝えるもの」


 キク兄は80年近くすんだ母屋を明け渡し、20年ほど空き家になっていた小さな隠居の家に昨日初めて泊まったという。それまで毎年薪を割り、毎日薪の風呂を焚いていたが、「もう年寄りじゃけん、火は危なかろう」と、隠居の家では電気温水器を取り付け、台所も電磁調理器に変えた。

 「今までと勝手が違うもんじゃけん、今朝、味噌汁炊こうと思うても、湯がなかなか沸かんのじゃ。おかしいと思ったら、どうやらアルミの鍋がいかんのじゃった」とウヂヲさん。キク兄は「確か、付属に専用のステンレスの鍋があったはずじゃ、ってばぁさんに言うても「知らん」って言い張る。「あった」「なかった」って言い合いしよったら、ばあさん、その鍋にトマト入れて冷蔵庫で冷やしとるんじゃ。はっはっはっ」

 火が扱えてこその山暮らし。山に生きてきたキク兄夫婦の暮らしから「火」が無くなってしまうのは、寂しく切ない気がする。でもその一方で、新しい生活環境に戸惑うキク兄夫婦の失敗談を聞きながら、私はなんだかウキウキしていた。それは、キク兄たちが「もう帰って来んじゃろ」とあきらめていた息子さん夫婦が村に帰ってくることが、切なさ以上に嬉しかったからだ。

 60年近く野菜を作ってきても「まだまだ毎年勉強じゃ」と笑うウヂヲさん。80歳を過ぎ、伝えるものは次世代に十分に伝えて、これからまた新たな勉強の始まりなのかもしれない。

 飯盒と電磁調理器。この半世紀、人々の暮らしの変化は未だかつて無いほど大きい。高度経済成長期以降に生まれた私は、便利さばかりを追い求める時代の河に流され溺れかけていた。でもこの村に来て、本当に大切なのは何か、何を残して何を子どもたちに伝えるべきかを考えるようになった。それは人と人のつながりであったり、山に、自然に、生かされているという感覚であったり、その中で暮らしていく知恵であったり・・・。でも、まだまだ山の暮らしは奥が深い。明日またどんな発見があり、どんなことに出会えるか毎日わくわくしている山暮らし八年目。私の勉強は始まったばかりだ。

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「自然の薬で医者いらず」

(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年11月号掲載)

身近な野草が
薬になる

「ありゃあ。足がめんどいことになっとるの」。虫さされやあせもで、ひっかき傷だらけの娘の足を見て、イワ兄がぽつり。走り回って遊んではすぐに汗をかくので、塗り薬もあまり効き目がない。
「ホウセンカの焼酎漬けが効くぞ」とイワ兄。
「え、飲むんですか?」
「違う違う、あせもにつけるんじゃ。わしらも小さいときから家に作って置いてあったわ」。
 ホウセンカの花を摘み、焼酎に2,3週間漬け込んでおいたものを、患部にひたひたと付けるのだそうだ。花は白いものに限るという。
「あせもにはよう効く。擦り傷には、ハミ(マムシ)の焼酎漬けがええ」。
居合わせたケイ兄も「ほーじゃ、ほーじゃ」と頷いている。
 「山で仕事をしているときも、薬なんぞ持っていかんけんの。ケガしたらヘクサンボ(ヘクソカズラ)のツルをつぶしてその汁を塗ったし、化膿したところにはドクダミを蕗の葉に包んで火の中に入れて、蒸されてドロドロになったのを付けるんじゃ。ほんならいっぺんに治ったもんじゃ」。その他にも、ネブカ(ネギ)の汁は虫さされに、ヨモギの葉は切り傷にと、山暮らしならではの民間療法を、誰もが共通に身に付けている。

 外用だけではなく、飲む薬も自前で調達する。以前、この辺りでもすっかり珍しくなったという「センブリ」という薬草をキク兄にもらったことがある。センブリは名前の通り「千回湯の中で振っても苦い」というほど独特な苦みがあり、食あたりや胃腸痛に効くという。サバなどの青魚にあたったときは「クロモジ」の木を削ったものを、子どもの熱にはウドの根を乾燥させたものを、それぞれ煎じて飲む。

 病気、ケガ、家畜用の薬まで、それらがどの季節に、山のどの辺りに自生しているかもすべて把握し、さり気なく利用している山人の暮らしが、今もここにある。


「医者いらず」と
「医者おらず」

 今では村に診療所があるし、大きなケガや病気なら車で町まで行くこともできる。でも、じぃやばぁたちが子どもの頃は医者の一人もいなかった。ちょっとばかりの病気やケガなら、そういった自然の薬を取り入れながら、自力で治すしかなかったのだ。もちろん山の労働で鍛えぬいた身体は、貧弱な私たちとは比べものにならないだろうけれど、少なくとも「医者いらず」以前に「医者おらず」だったのは確か。

 ただ、重い病気の場合に限ってはやむなく町の医者にかかったという。近所同士が7,8人集まって、峠を越えて町まで病人を運ぶ。運ぶ道具は、担架のようなものを考えていたが、
「担架では、山の急なところで病人が滑り落ちてしまう」と、キク兄に笑われた。イメージとしては時代劇の駕籠のように、長い棒に、布でつり下げた板の上で病人は座った姿勢のまま運ばれるのだそうだ。細く、曲がりくねった山道なので、前後1人ずつしか担ぐことができない。それぞれが手弁当で時々交代しながら、乗り合いバスに乗れるところまで運ぶこと40キロ。もちろん足はわらじ履き、1日がかりの大仕事だった。

 こうした「山の救急隊」出動もそうたびたびあることではなかったが、80歳を過ぎたウヂヲさんはよく覚えている。「うちの母親は病身やったけん、何度か運んでもろうたわ。運ぶ方も大変、運ばれるほうも重病じゃもの、まぁ、大変じゃわの」。何もかも便利になった今となっては、そんな大変な運搬劇も、それほどまでの人と人との結束も想像することすらできない。でも、そんな時代を生きてきた人たちだからこそ、強く、温かく、優しいのかもしれないな。

民間薬の
効き目はいかに

 さて、今や貴重な「センブリ」を、食べ過ぎて胃もたれしている連れ合いに試してみた。
「にっが〜」と顔をゆがめる連れ合い、「でも、効きそうな気がする」。1時間後にはすっかり治って、その効果に驚いていた。センブリが効いたのか、時間が経ったからよくなったのか、センブリを飲んだという気分から治ったのか。野草の薬効は西洋薬ほど即効性はなく、人によって効き目が違うと言うからあまり過信はできないけれど、少なくとも身近な自然の効力を身体に取り入れるのは身も心も何とも気持ちがいいものだ。

 身近に病院があることは確かに安心感はある。でも、できることなら厄介になりたくはないし、西洋医学に頼らず身体の自然の声に耳を傾けていたいと思う。

 早速、じぃやばぁたちに聞いた民間薬を自分でも作ってみようと、まずはホウセンカの白い花を集めて焼酎に漬け込んでみた。これができあがる頃には秋風が吹いてあせももひいているだろうけれど、来年の夏に向けてじっくり熟成させるべし。

 子どもたち、来年も山や川でたくさん遊んでたくさん汗をかいて、あせもをたくさん作っておくれ。母は今から試してみたくてうずうずしているのだから。

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「敵はサルもの」 

(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年10月号掲載)

敵はサルもの

「ありゃぁ、ボスは大学出じゃな。かなり賢いわ」
ばぁたちが町へ買い物へいくために、よそ行きの服に着替えて出かけると、必ず畑が荒らされる。留守を見計らい、一気に大勢で畑に押し寄せて、食べ頃の野菜を総ざらえするー山のサルたちの仕業だ。きゅうり、人参、イモ類、豆類、大根、トウモロコシ、スイカ、柿、スモモ、キウイなどなど。タマネギと唐辛子以外はすべてサルの好物のようだ。
「去年はサツマイモはほとんど全部掘られてしもたし、カボチャも半分はやられてしもた。今年も、どんだけ人の口にはいるやら・・・」アキねぇは苦笑いしながらため息をつく。

 サルの被害は年々ひどくなってきている。村では畑のあちこちに趣向を凝らした案山子が立てられるようになり、さながらサファリパークのごとく、ぐるりとネットが張り巡らされるようになった。でもそんな努力も、それほど成果はないらしい。それらの案山子があまりに人間ぽいので、私は見る度にドキッとさせられているのだが、サルは簡単に見破ってしまうようだ。また、いくらネットで防除柵を作っても、サルは力もあるし指先も器用に使えるので、くぐったり破ったりと人間ワザなどやすやすとかいくぐってしまう。

 昔から「サルは赤いモノを怖がる」とも言われているようで、タケねぇは昨秋、食べ頃に近い柿の木のてっぺんに、赤い毛布をかぶせてみたそうだ。ところが、「見てみたら、おっきよい(大きい)サルが、その毛布の上にどしんと座って、旨そうに柿をもいでは食べ、もいでは食べ、しよったわだ。近所のシ(人)に、おまんく(お前の家)では、サルに赤い座布団も用意しとるんか、って笑われたわ」。柿を食べているサルを一喝しても、サルの方は「邪魔するな」と言わんばかりに、歯を剥き出しにして「キィーッ」と向かってくる始末。どうも、今のところ何をしても効果はないらしい。


サルにはサルの事情があり

 「昔はこんなことなかった」と、じぃやばぁたち。サルが急激に増えたのだろうかーいや、どうもそうではないらしい。

 確かにサルは保護動物となって、シカやイノシシのように猟で撃たれることはない。でも、近頃は庭先でシカが見られるように、山の獣たちがどんどん人里におりてきている。

「こんな山奥の村じゃけんど、わしらが若いときは、シカもサルもこんな家の近くでは見たことなかったわだ。山が杉ばかりになってしもたけん、実のなる木がのうなって(無くなって)、山に食べもんがないんじゃろうのぅ」。じぃやばぁたちが子どもの頃、大人は山でヒエやアワを作り、子どものおやつといえばアケビだ、山グリだと、山の木の実をたくさん採ってきて食べたという。それほど遠くない昔、山は多種多様の生き物たちを十分養っていけるだけ豊かだった。だから、サルもシカもイノシシも、人間とは全く生活圏の違う奥山でのみ暮らしていけたのだ。

 戦後、都市部の需要を見込んだ当時の政策とはいえ、自分たちの手で広葉樹を伐採して杉を植えてしまったことが、じぃやばぁたちにとって悔やまれてならない。だからだろうか、サルにあれほど畑を荒らされても、シカに芽が出たばかりの落花生を、ハクビシンにトウキビを、イノシシには里芋をさんざん喰い尽くされても、腹は立てども、全くの対決姿勢ではないように感じる。

 度重なる畑の被害にサルの駆除の日が設けられ、その時のみサルも撃つことができるそうだが、「サルはどうもヒトに似とるけん、わしら、よう撃てんわ」と「追い山シ」(猟をする人)のじぃたち。生き物への「愛情」とか「愛護」とか、そういう言葉では表現できない、山に生かされてきた同じ立場としての獣たちとの関係性は、私たちには到底理解できないものなのかもしれない。高度経済成長期、私たちもまたその恩恵を受けているはずなのだけれど。


サルの受けた「被害」

 とは言っても、これからサルたちのためにせっせと野菜を作るわけにもいかないわけで、ばぁたちの自給用の畑は、生き甲斐でもあり大切な食糧庫でもある。去年もサツマイモをほとんど捕られて、毎年作っていた「茹で干し」(干しイモ)を作ることができなかったアキねぇの寂しそうな顔が目に浮かぶ。「孫が遊びに来たら食べさせてやろうと思って、毎年どっさり作っとったのに」 。

 今年すでに、アキねぇの畑では、まだサツマイモなど到底ついていない6月に、8割方つるを引っこ抜かれてしまったらしい。サルも、作物が大きくなるのを待てないほど餌がないのか、それとも、サルや他の山の獣たちが受けた「被害」のしっぺ返しをしているのか。

 去年の全国各地でのクマ騒動もしかり、「鳥獣被害」とは言うものの、人間の手によって最初に被害を受けたのは当の獣たちだ。そのつけが今、たまたま目に見える形で人間に及んでいる。「野生動物との共存」と口では簡単に言えるけれど、餌になるドングリをばらまくことだけでは問題は本質的に解決しない。人間と野生動物が棲み分けができていた頃の山に戻していくことこそ、今真剣に取り組むべきことなんじゃないだろうか。

 我が家の畑も、今年は案山子を立てた。でもいかにも貧弱で、遠慮がちなまなざしの案山子なので、サルたちに「ごめんなさい」と謝っているように見える。これでサルたちが、人間のした悪さを許してくれるとは、到底思えないけれど・・・。
 
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2017年08月04日

山の葬式

(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年6月号掲載)

山の葬式 まずは箸と団子から

 「箸は何本削るんじゃ? 団子の串は?」。隣のじぃちゃんが亡くなった晩、組内の男シたちが鉈を腰にぶら下げて集まってきた。いったい何が始まるんだ、と私は目をきょろきょろ・・・これが、村で経験した初めてのお葬式だった。

 ここでは、「組」いわゆる隣組の中で誰かが亡くなった場合、組内のものは内輪として葬式を手伝うことになっている。高齢化により、一昔前に比べればだいぶ簡略化されてはいるけれど、それでも組内のみんなが協力し手作りする部分がかなり多のは、町のそれとはだいぶ違う。

 先の「箸」というのは、出棺の時に棺を担ぐ、あるいは見送る人が弁当を食べる「箸」のことである。ご飯(米)を食べて精を付けておかないと、魂が死者に引っ張られるからだと聞いた。その昔、耕作地が少なく米より雑穀に主食を頼っていた山の民にとって、「米」の弁当というのは特別な意味があるらしい。

 竹林から竹を伐ってきて集まり、何十本もの箸を削る。これが組内の男シたちの最初の仕事だ。箸を削りながら、ここのじぃはああじゃった、こうじゃったと、思い出話に花が咲く。一方おなごシたちはその弁当(混ぜご飯)づくりと団子作りの算用だ。何人くらい参列するか、具のタケノコやワラビは誰が持ってくるか、米は何升準備するか。団子とは祭壇に供えるもので、白と緑の団子49個を男シが削った串に刺し、遺影の前に立てて飾る。死後49日のあいだ、団子一つずつが死者の1日の食事なのだそうだ。

 私も初めて団子作りに参加して、大きさが揃わず四苦八苦。
「あ〜、すみません」。
「ええんよ、誰もこんなこと慣れとらんのやけん」。
確かに、団子や箸のこと、葬式の手順は何かに書き記されているわけではなく、口承で伝わってきたもの。3回目の組内の葬式の時は、「えっと、団子は白と緑と赤やったかいな」と向かいのおばさんに私が聞かれたほどで、みなが曖昧なところで何となく了承している部分が多いのが実際のところ。もしここで私が「はい、そうですね」と答えたなら、ひょっとすると次の葬式から赤、白、緑の色鮮やかな団子が祭壇に供えられるかもしれない。確固たる形式があるようなないようなところが、格式張っていない山の葬式らしくていい。


通夜の晩 にわか「お経係」

 こんな感じで組内のシはあれこれと下働きするので、通夜も葬式当日も服装は普段着や作業服だ。黒装束でないので、「ええっと、これは何の寄り合いだったかな」と一瞬「葬式」という儀式を忘れてしまうほどだ。「死」というものが特別なことでなく、普段の生活の延長に位置づけられている感じがする。

 もちろんここには葬儀場などないので、亡くなった人の家で通夜と葬儀が行われる。箸を削り終えた男シたちと一緒に、連れ合いと私も通夜に参加。祭壇のある部屋に亡くなったじぃちゃんが布団の上に横たえられていた。手を伸ばせばすぐに触れることができる距離だ。葬式当日にはお坊さんを町から呼んでいるが、通夜の晩は自前のお経でじぃちゃんを囲むことになる。このときはお経を読める人材がおらず、誰かが持ってきたカセットテープレコーダーでお経のテープを掛けることになった。ところが、なにぶん高齢者ばかりで再生や巻き戻しの仕方がわからず、連れ合いがにわかお経係、というか音声係。「あれ、なんで僕かなー」と戸惑いながら高速巻き戻しをするが、なかなか相当のお経部分に到達せず、みんなの待つ中連れ合いは焦る。それでも誰も文句も言わず、談笑しながらじっと待っている。

 葬儀屋の流暢なアナウンスはないけれど、どことなくクラスのお別れ会的な温かさがあって、ああ、これならじぃちゃんもにこにこ笑ってみんなとお別れができるだろうなという雰囲気の中、通夜の晩はにぎやかに更けていく。


葬式・水道・道路 出役(でやく)の喜び 

 少し前まで土葬も行われていたそうで、今の四〇代でも土葬のための穴を掘った経験があるそうだ。今となっては、すべてが火葬。数十キロ離れた町の火葬場まで車で棺を運ぶ。山の葬式も様変わりしつつあるけれど、それでも近所同士の助け合いあっての行事であることは今も変わりない。

 「昔は、家を建てたり、用水路を直したりするときも必ずみんな集まったけんど、今ぁ葬式の他はそんなことも減ってしもたなぁ」と七〇代以上のじぃたちは寂しそうだ。とは言え、他にも谷から水を引く水道の管理、山道が崩れたときの修復作業など、時代が変わったとはいえ今でも残されている自主的な共同作業がある。こういう作業をこのあたりでは「出役(でやく)」と呼ぶ。

 どこの田舎にも「出役」に相当する作業がある。それがときには移住者にとって煩わしい存在にもなるようだ。でもよくよく考えると、それらの作業は田舎に暮らしていく上で自分も受ける恩恵につながるし、移住者にとっては地元の人と親密になれる絶好の機会だし、何より代々受け継がれてきた先人の知恵を学ぶことができる。形式ばかりが残されて現実にはそぐわない場合もあるかもしれないが、ここ山の暮らしに関しては、ほとんどが必要最低限の共同作業、それらすべてが無駄なく理にかなっている。

 私たちはここに来てからずっと「出役」となれば喜び勇んで参加し、組内の葬式も3回経験した。町育ちの自分たちはあまりにも非力で、実はほとんど役に立っていないのだが、例えば葬式の準備を一緒にしながら亡くなった人の歴史を聞くにつけ、過酷な山暮らしのなか山を、川を、人との繋がりを守ってきた山人の壮大なドラマがあったことに感動する。今、自分たちが満喫している山の風景や水、空気・・・すべてのものはこの人たちが自然との関わりや闘いの中でつくってきてくれたものだと改めて感じるのだ。

 出棺の際じぃちゃんは、町に出て暮らしている親族と、ともに支えあって生きてきた山人たちに囲まれ家を出た。おりがみを小さく刻んだ花吹雪が、竹でつくったくす玉から棺にひらひらと散りばめらると、私の眼は涙でいっぱいになった。

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2017年08月03日

風呂はやっぱり薪の風呂

(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年4月号掲載)

薪風呂初日 我が家の場合

 もうもうと湯気の立ち上る風呂場で、「うわー、56度!」と連れ合いが叫ぶ。風呂桶のお湯は、もうそれこそ手がつけられない熱さになっている。風呂に入るべく待ちかまえていた私と子どもらは、湯が冷めるまで着替えとタオルを持ったまま2時間ほどお預け状態。「あー、薪を無駄にしたなー」と、連れ合いが頭をぽりぽり。これが、わが家の記念すべき薪風呂第1日目だった。

 昨秋の引っ越しに伴い、憧れの薪の風呂を手に入れた。夕暮れ時に山懐の家々から立ち上る薪風呂の煙に心癒され、時々厚かましくも近所にもらい湯させてもらったりして、薪風呂の魅力に取り憑かれていた。何とも言えないお湯の「まるさ」といい、風呂上がりの心地よさといい、薪で焚いたお風呂は一度体験すると忘れられないものがある。

 薪でご飯や汁を炊き、暖を取り、風呂も沸かしていた、かつて当たり前にあった山人の暮らしも、今や電気やガスがとって変わってしまった。しかしながら、風呂に限ってはまだ薪風呂を残している家が多いのだ。山や畑での仕事が一段落し、空気も木も乾燥する冬の時期に、1年分の薪を割り保管するのは、今も変わらぬ山暮らしの営みの一つだ。澄み切った空気に薪割りの音が山々に響いてくると、ああ、もうそんな季節なんだなと冬の到来を感じ入る。美しく積み上げられた薪は、目に見える形のエネルギーの貯蔵庫でもある。

 その昔、薪山から薪を背に負ってくるのは子どもの仕事でもあったそうで、わら草履履きにあかぎれの血がにじみ、薪の重さが肩に食い込み、「ほりゃぁ、つらかった」と村のじぃたち。話に聞くだけで、とても軟弱な私に真似できそうにない。もちろん、わが家は薪をとる「持ち山」などないので、河原で流木を拾ったり、村の人に木をわけてもらったり、伐らせてもらったりするのだけれど、今ではあたたかい手袋も頑丈な靴もあり、場合によってはチェーンソーも使い、車で薪を運ぶこともできる。谷から水さえも運んできたことを思うと、蛇口をひねれば好きなだけ水も出せる今、「薪の風呂」といえども、何とも便利な時代である。

山人の「当たり前」

 我が家も何度か風呂を焚いてみて、薪の量はだいたい見当がついてきた。でも薪に火をつけるのにあまりにも時間が掛かる。勢いよく燃え出すまでに10分、20分掛かってしまうのだ。薪風呂のベテランたちがこんなぶざまなことはしていないはず。何か極意があるにちがいない、ということで風呂を焚く時間にキク兄(84)のところへ抜き打ち見学に行くことにした。「ほんな、見せるほどのもんでないわー」と笑いながら、キク兄は新聞をくるくるっと巻いて火をつけ焚き口に放り込むと、あとは細い枝や細く裂き割った薪をのせて、次に大きな薪をくべていく。あっと言う間だった。

「わしら、物心ついた時分から、風呂焚かされたけんな。誰に教えてもらったっていう記憶はないわ」
火の起こし方は今やアウトドアの常識なのかもしれないが、この道80年の大ベテランは火や木の扱い方が堂に入っていてかっこいい。

 昔は、杉ではなく雑木を薪に使ったので火が長持ちしたこと、「こえスギ」という油分の多いスギの芯の部分を細く裂いて焚き付けに使ったこと、燃えた後の灰は「こんにゃく作り」に欠かせない大切な副産物であることー薪をくべながら、いろんな話が湧き出てくる。つい夢中になって聞き入っているうちに、「もうそろそろ沸いた頃じゃ」とキク兄は湯加減を見に行った。当然のことながら長年の経験から、どのくらいの薪をくべれば適温なのかが感覚でわかっているようだ。山人の「当たり前」が私たちは不思議でしょうがない。でもキク兄にとっては、湯加減も温度計が頼りで、それも薪をくべすぎて56度にまで沸かしてしまう私たちのほうが奇妙でしょうがないのだろうなぁ。


薪風呂な日々
 
 
 薪の風呂になってから、我が家は風呂を中心にして1日が巡るようになった。午後3時を過ぎると浴槽に水をはり、学校帰りに小枝を拾ってきた子どもと一緒に風呂を焚き始める。いくらバタバタと慌ただしく日中を過ごしても、薪が燃えるあたたかい火をみていると、何とも気持ちが安らいでくる。

 薪の調達や、薪割り、風呂焚きの手間を考えれば、電気やガス、灯油で風呂を沸かす装置をつけるのは簡単だ。それでも村のじぃやばぁたちは薪の風呂がいいという。それはなぜかと聞いてみても、「はっはっはっ、何でかなぁ」と、まともに答えが返ってこない。

 指一本で適温のお湯を適量浴槽に溜められる、というのは確かに時間も労力も掛からず便利かもしれない。でも、火を身近に感じる人本来の暮らしは、時間は掛かるけれど心理的にも感覚的にも、何ものにも代え難い癒しを与えてくれるような気がする。村のじぃやばぁたちが、薪の風呂を続けているのは、そんなところにもあるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えながら、今日も風呂焚きに励む私たち。いつか、温度計なしで適温に沸かすことができるよう、目下修行中である。

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7年目の引っ越し

(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年3月号掲載)

 6年住んだ旧教員住宅が取り壊されることになった。4畳半一間、6畳一間と台所に風呂・トイレ。家族4人が住むにはちょっと狭いが、柚子畑に囲まれた川の畔の一軒屋で、ボロ家なりの愛着があった。もう少し住んでいたかったが、そうも言っていられない。急いで村内で他に借りることのできる家を探すことになった。

 過疎の村。空き家は多いが、いざ借りるとなると難しい。周りの空き家を見ても、昔から使い続けてきた農機具や道具の数々が所狭しと置かれていたり、町へ出た家主が時々戻ってくる週末ハウスになっていたり、空き家歴ン十年で、ほとんど朽ちかけていたり。改築にお金をかける余裕はない。

 はて、どうしたものかと、親しくしてもらっているナンコねぇに相談する。

 「ほりゃぁ、大変じゃ」。それからが早かった。ばぁちゃんネットワークでめぼしい空き家をピックアップし、子どもの通学に遠すぎないか、実際貸してもらえるか、しかも家賃は安めで、の交渉まであっという間にすすめられ、「明日一緒に見に来んかぁ」と電話があるまでにそう日にちは掛からなかった。。

 田舎には不動産屋はないけれど、心安いじぃやばぁたちの情報ほどかたいものはない。早速その物件を見に行くと、適当な広さで、日当たりもまずまず。2年ほど人が住んでいないので内装は少し痛みかけているが、十分修復可能な状態。子どもたちも、初めて自分の部屋が持てるかも、と期待している様子だ。「是非、お借りします!」即決した。

 今年度中に引っ越せばいい、と私たちののんきな引っ越しモードをよそに、それからのばぁたちのスピーディーでありがたい協力といったらなかった。

 借りることが決まってから何日もしないある日、「わしらが紹介したけん、汚いままでは気の毒じゃ」と、10人ばかりのばぁたちが早朝から集まって、外回りの掃除をしてくれている。前日に連絡を回してくれていたようで、たまたま留守をしていた私たちだけが知らなかったらしい。

「待っとんたんじゃ、鍵あけてくれるか。中も掃除せにゃ」と、どやどやと中に分け入り、畳も外に干しての大掃除が始まった。まだ日中は暑い秋晴れの日で、ばぁたちはたくさん汗をかいて作業してくれている。

「この畳はだいぶ痛んどるけん、代えた方がええわ。だれそれの倉庫にまだ使える古畳が置いてあるはずじゃ。」

「この風呂の戸は腐っとるわ。うちにこれと同じ半間の扉があるけん今度持ってくるけんの」

そんな会話を交わしながらてきぱきと動き回るばぁたちに囲まれて、私はどうも掃除のじゃまなので、すみっこの方で冷たいお茶の準備をする。

 気づくと、向こうの道からユンボ(ショベルカー)が近づいてくる。でこぼこのある横の空き地を均すために、ユンボの名士であるケイ兄に頼んでくれたらしい。

「平らにすれば、ここに車1台置けるけんの」。

 半日ほど汗だくで作業をして、

「ま、だいたいきれいになったわ」

と、ばぁたちは晴れ晴れと去っていく。こちらはありがたいやら恐縮するやら・・・。それが、引っ越し準備第1日目だった。

 その日以来、台所を床張りにしたり、外にあるトイレに渡り廊下をつなげたりといった改築作業を、連れ合いが素人なりにぼちぼちと始めたのだが、あまりにもスローペースなので心配してくれたらしい。元大工であるアサ兄がやって来て、「こりゃぁ、こうするんじゃ」と大工妙技を次々と披露し、作業は瞬く間に進んでいった。早起きのアサ兄は、いつも早朝から来て外で焚き火をし、「お、来たか」と、作業開始を待ってくれていた。 

 改築に使う用材も、「わしく(私の家)にあるのを使ってや」と何人もの申し出を受け、何十年も前に自分の山から伐り出し保管していた貴重な材も使わせていただいた。

 自分の家は自分で直す技量を、ここでは誰もが持ち合わせている。その昔、と言っても、今の70歳代以上のじぃやばぁたちが家を建てるとき、柱は必ず自分の山から大鋸で伐り出し、川に落として流送し運んで使ったという。私たちが借りる家も、そうして運んだ桧の柱が何本もある。釘を打とうとしても堅くて入らず、反対に一度打ち込んだ釘は簡単には抜くことができない。それ以前に、人の手で苦労して山から伐りだした木だと思うと、カレンダーを掛けるごときで不用意に釘を打つのもためらわれるほどだ。

 こうして、私たちが山人の歴史に一つ一つ感じ入っている横で、アサ兄の手は止まることなく、そのお陰で何とか年を越す前にだいたいの改築作業は終了した。

「まぁ、迷信じゃろうけんど、いい日に引っ越してこいよ」との、じぃやばぁたちの言葉に、そういうことに全く無頓着な私たちだったが、一応大安吉日に荷物を運ぶことにした。

 何とか落ち着くことができて、「よかったよかった」とほっと一安心しているのは、私たち以上にじぃやばぁたちだったかもしれない。畑の合間に「どうじゃ、住み良いか?」と順番に顔を出し、「ここんとこ、もうちょっと屋根を出した方がええのう」「ここに靴置きを作ったら?」となおも我がことのように考えてくれている。

 引っ越して次の日、隣に住む一人暮らしのばぁちゃんが満面の笑顔で言った。

「ここに夜、灯(ルビ・ひ)がともるだけで、わしらどんなに嬉しいか。子どもの声が聞こえるだけで、どんなに元気が出るか。わしだけやない、近所のシはみんなそう言っとるわ。ホンマにありがたいこっちゃで」。

 ああ、そういうことなんだな。じぃやばぁたちがあんなに一生懸命家を探し、いろいろと手伝ってくれたこと。過疎の村に、人が住むという意味、子どもが大切にされるわけがその一言で理解できた気がした。私たち自身も、山奥の一軒家では暮らせない。こうして人のぬくもりが身近に感じられるからこそ、山の暮らしを満喫できるのだと今、実感できる。山での7度目の春を迎えようとしている。

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地鶏にハマる

まっことええぞ これがホンケの山暮らし(「田舎暮らしの本」宝島社 2004年1月号掲載) 

地鶏にハマる

 「卵を自給しよう!」との思いから、まずは番で地鶏を飼い始めたのが3年前。子どもたちの要望で名前も付けた。ウク(♀)とレレ(♂)。
 飼い始めるとこれが予想以上に賢い。昼間は庭や周りの柚子畑で、雑草やミミズを食べたりひなたぼっこしたりして、夜は鶏小屋に戻って眠る。「レレ!」と呼ぶと、草の茂みからトットコ走ってくる。愛嬌もある。子どもたちにもすっかりなついて、いつしかウクとレレはいつしか我が家の暮らしの中心的存在に・・・。

 一心「孵卵」!

 肝心の卵のほうは、産卵用に改良された鶏とは違って2,3日に1個というゆっくりしたペースだ。その一つを必死に産み落とす健気な姿を見ていると、食べることが申し訳ない気もしてくる。家族4人が順番に食べるので、10日に1度くらい、小さいけれど栄養満点、濃厚な地鶏の卵をいただくことになる。
 通算20個くらい卵を産むと、地鶏はおもむろに産んだ卵をくちばしで寄せ集めてあたため始める。卵を抱く期間はもちろん、ヒナが孵って子育てが一段落するまで数ヶ月はもう卵を産まなくなると聞いて、「玉子」をとるか「卵」をとるかの家族会議。結局「命が誕生するシーン」に触れたくて、満場一致で最後の5個ほどの卵は食べずにあたためさせることにした。
 「鶏は卵を抱きはじめてからちょうど21日で孵るんじゃ」
「へー、そうなんですか」
近所に住むキク兄にそう聞いて感心しながらも、半信半疑だった私。一応カレンダーにあたため始めてから21日目に「予定日」と書き込んだ。その間ウクは座禅を組む禅僧のように卵の上で微動だにせず、餌もほとんど食べなくなった。まさに一心不乱の孵卵。全身全霊で卵に魂を送り込んでいるようにも見える。
 こうして、ヒナが孵ったのはまさに予定日通り、1日の狂いもなく、その日のうちに4つの卵が次々に孵っていった。
 この恐ろしいほど正確な命のサイクルの不思議。いや、まてよ、これが自然界ではごく当たり前なのかもしれない。
 私たち人間だって、十月十日とはよく言ったもの。出産ばかりは自分の意志でどうなるものではないのは二児の母の私も経験済み。でも聞くところによると、産院の都合で、土日に出産する人数がぐっと少ないという。出産という最も自然のサイクルを感じ得る場面で、人間はそれさえも人為的に「調節」しようとする。やっぱりそれっておかしいし、きっとどこかに無理が出てくるはずだ。わたしたちは他にもいろんな場面で、もっともっと身体の声、自然の声に素直に従うべきなんじゃないのだろうか・・・そんなことを考えながら、小さな小さなヒナがウクの羽根の中から時々顔を出し、外の世界をうかがっている様子をうれしそうに一日中見ていたものだ。

 身近な常備薬

 それからあとも、母鶏の献身的な子育てぶり、父鶏の子育て参加・・・と、本能的ながらドラマチックな「地鶏な暮らし」を目にすることになるのだが、人と鶏の関わりの中でのエピソードを一つ。
 一番元気で人一倍(鶏一倍?)餌をがっついていたヒヨコが、1ヶ月位してから急に首をすぼめてじっとうずくまることが多くなった。病気?、それとも何か悪いものを食べたのか。餌を探して動き回る母鶏ウクのあとを、他のヒヨコよりだいぶ遅れてよたよたとついていく姿が不憫だった。
 こんなとき「犬猫病院」に連れていくのだろうか。薬局に鶏用の薬もないだろう。どうしたものか・・・と思案していると、「ほりゃぁ、食べ過ぎじゃ」とキク兄が原因をあっさりと言い当ててくれた。
「胸の片方が膨らんでるじゃろう」
なるほど、片方の胸が突き出ている。元気なヒナほど食べ過ぎてしまうことが多いらしい。
「昔はヒナの胸を切って中のものを出してから、また糸で縫いつけとったわ」
何でもやってみたい願望の私でも、さすがにちょっと無理そう・・・。
「ほかに方法は無いですかねぇ」
「唐辛子を水に混ぜて飲ませよったのぅ」
「あ、そっちにします」
身近にあるものが薬にもなるんだなぁ。唐辛子、梅酢、干したハミ(まむし)。人にとっても家畜にとっても、山の暮らしに欠かせない常備薬なんだそうだ。
 「それでも治らなければ、あとは神頼みじゃなぁ。はっはっ」。
 なるほど。早速家に帰って唐辛子を手にしたものの、「はて、どれくらいの量なんだろう・・・」と、もたもたしているうちに、食べ過ぎのヒナは自分の力ですっかり回復してしまっていた。神頼みもせずに済んでほっと一安心。そんな経過で、食べ過ぎ鶏の名前は「たべすぎちゃん」に定着した。
 あれから幾度の孵卵を繰り返し、今は4世代同居の地鶏たち。何もかも生き物らしいペースなので、効率がものをいう社会でははじき出されるかもしれない。でも、餌は残飯や身近なものですみ手が掛からない点でも、命を見つめる点でも、地鶏はスローライフにぴったりの家畜だと思う。

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山のババたちから学ぶこと

(月刊クーヨン「クレヨンハウス」2003年7月号 特集「環」)

「もう大豆蒔いたかぁ? 昔から大豆は半夏(ルビ・はんげ)までに蒔けって言うでなぁ」「スイカは実がついてから40日で食べ頃じゃ。今年は上手にできとるでか。はっはっはっ」 麦わら帽子の下から、山のババたちの日焼けした笑顔がこぼれる。

 大阪から、徳島県木頭村(ルビ・きとうそん)に家族で移住してきて5年目になる。清流のほとりに小さく古い家を借り、数羽の地鶏を飼い、晴れた日は子ども達と畑仕事に汗を流して暮らしている。下手っぴいだった畑仕事もなかなか様になってきたよなぁと、にんまりいる私だが、ベテランのババたちから見れば「あー、もう見ておれん」って感じなのだろう、いつもあたたかくさり気なくアドバイスしてくれる。

 畑に限らず、私たちにとってここでの暮らしは知らないことばかり。とにかく毎日が新鮮だ。耕地の少ない山間地帯で、互いに助け合ってたくましく生きてきた村のじぃやババから学ぶことはあまりに多い。自然と生きる術を体で知っている人たちである。山のこと、川のこと、食のこと、住のこと・・・長年の経験から得てきた知識は、机の上で学ぶことのできない重みがある。そして、身近な自然の素材をを巧みに利用し、決してモノを浪費しない暮らしぶりや、じぃやババたちの腰にぶら下げた鉈(ルビ・なた)や鋸が使い込んですり減り、それでも常に手入れが行き届いているのを見るに付け、自然の中に暮らしがあることをしみじみと感じるのだ。

 転じて、私たちの(町の)暮らしはどうだろうか。「環境の時代」と言われて久しいが、プラスチック製品が大量生産・消費され、遠い国から食材を搾取し、毎日膨大な量のゴミを出しているこの国で、私たちは本当に自然を取り戻す方向にむいているのかと考え込んでしまう。特に、高度経済成長期以降に育った私たちの世代は、ボタンやキーの操作は知っていても、自然とどう向き合って暮らしていくかについては、ほとんど無知に等しいのが現実だ。効率やスピードの中で見失ってきたものは大きい。今、じぃやババたちの世代から受け継いでおかなければ、ますます自然から隔絶された暮らしに向いていってしまうのではないだろうか。

 この村は、30年前に持ち上がった細川内(ほそごうち)ダム計画に反対し、2000年に悲願のダム建設中止を勝ち取った村である。一度始まると止まらないと言われた巨大公共事業を、「カネはいらん。川や自分たちの暮らしを守りたい」と跳ね返したじぃやババたち。その強さの源はやはり、風土に寄り添って暮らす「豊かさ」を実感していること、そして自然の中で生きる術を知っている自信からくるように思うのだ。

 今日もじぃやババたちは、守られた清流の瀬音を聞きながら、山や畑でいっぱい汗をかき、「はっはっはっ」とたくさん笑って暮らしている。そんなじぃやババたちの暮らしの中から、複雑だと思われがちな環境問題を解くヒントが見つけられるような気がする。

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2017年08月02日

山火事から学ぶこと

(コープ自然派Tableタブル連載 2015.10月号)

 山の畑にいると防災無線でサイレンの音。見ると3キロほど離れた山から細い煙があがっている。そのうち煙はどんどん太くなり、防災ヘリコプターがやってきて空から水を撒き始めた。秋晴れ続きで乾燥していたせいか火は劣えることなく燃え広がり、ヘリが川の水をポンプアップするために集落内のグラウンドに数分おきに離着陸。いつも静かな村が急にものものしくなった。

 何日も燃え続ける山火事を見るのは初めてで、一体どうなっちゃうのかと不安になる一方、じいちゃんばあちゃんたちは意外にも落ち着いており、「昔は山仕事して山で茶湧かして、よう山火事になったもんじゃ」とさらり。ん? 山の上には水がない。ヘリコプターがない時代にどうやって消火していたのかな、深まる疑問。

 山で火を消すためまず掛けるのは水ではなく土。そして周りへの延焼を抑えるために周囲の木を切り倒して土を盛りあげ被せる、これを「火道(ひみち)を切る」と言うそうだ。

「火道の幅はだいたい2、3メートル。でも風のある日はそれでも足りんこともあるな」。

 大きな火になると必ず竜巻のような風が起きること、燃え尽きた根に支えられていた大きな石が落ちてくるから斜面の下方にまわってはならないこと。どれもこれも知らないことばかり。

 もし火事が起きてしまったときどうするか。もし失敗したら次にどうするか。今私たちはとかく失敗しないようには気をつけるけれど、失敗は無いと思い込むあまりに次がシミュレーションされていないことが多いのではないだろうか。最長老の山師のじいちゃんも言っていた。木に登って作業するとき大切なのは、落ちないようにするのではなく落ちたときにどうするかということ。

 「山火事はそのうち必ず消えるけんど、これから一番怖いのは、大雨が降ったとき木の無い山から土石流が起きて川底が上がることじゃ」。木が成長するまで何十年ものあいだ、雨のたびに下流で浸水しやすくなるのではとじいちゃんはさらに先を見通して心配している。

 ここにきて原発を再稼働するという。「事故は起こらない」という。万一事故が起こっても避難計画を立てヨウ素剤も配っていると息巻くが、自分たちが受ける何十年も、何百年も続く被害のことをどこまで考えているのだろうか。人類は長年地上の火と共に暮らしてきた。じいちゃんばあちゃんが冷静に山火事の行方を見守っていたのは、自分たちの失敗や経験から学んできた自信があるからだ。原子力の火について人はあまりにも経験がなく、そして失敗は許されない。史上最悪の事故で再確認したのは人と原子力は共存できないことではなかったか。山火事の灰は土地を肥やすが、死の灰は命を根絶やしにする。

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2017年08月01日

『受け取ったもの、伝えていくもの』  げんばまきこ

          (コープ自然派 Tableタブル連載 2015.9掲載)

 「ビルマの田んぼは、雨期のころ雨が降るのを待って牛で田をひいとった。日本のように水を引くことはせず、自然任せでよう米ができとった」「山のほうでは竹薮を焼いて田んぼにし、3年ほどは同じところで米を作り、5年ほどでまた竹薮に戻すようじゃった」「乾期には村の人らは水に苦労しとったな。1キロほども先から水を汲んで運んでくるが、濁ってすぐには使えん。軒下のカメに入れて水が澄んでから使っとった」。

 私がここに来て、ムシロやシュロ縄の作り方を教えてもらいながら一番長い時間話を聞かせてもらったキク兄は、かつて深い雑木の山に分け入り、チェーンソーを使わず鋸で天然木を伐ってきた最後の世代。十三歳から父について山仕事をしてきたが、二十歳で徴兵されビルマ戦線に赴いた。

 はじめのころは勢いよかった日本の軍も後半には敗戦色濃くなり食糧や医療品支給も完全に途絶え、ジャングルのなか飯盒と水筒だけを持って現地調達の日々。ヘビやトカゲ、小動物を捕まえて食べられるものはなんでも食べ、現地で多かった皮膚病には竹の葉を黒焼きにして塗った。雨期になると靴も衣服もどろどろになり裸同然。足自体が腐ってウジがわき、近くで寝ていた仲間が痛みに耐えられず朝方には手榴弾で自爆していたこともある。大きな川を渡るときに筏を組めずに多くの兵隊が流されて死んでいった。「町から来た兵隊や、後半に人が足りなくて駆り出された歳のいった(30歳前後)兵隊などは、本当に苦労して亡くなった人が多かったな」。

 半数以上が飢えや病気で亡くなったとされるビルマ戦線から生き延びて帰ってこれたのは、それまでに培った体力と山に生きる術だと思う一方、やはり生死は紙一重、偶然助かったにすぎないとも。

 淡々と話してくれるキク兄だが、戦場は決して勇ましいものでもかっこいいものでもなく、飢えや恐怖から人が人でなくなってしまう壮絶でひたすら残酷な場であることが伝わってくる。それでいて語られるビルマの田畑の様子や人々の暮らしは、まるで映画でも観るように色鮮やかで豊潤だ。「女の人が水源から水を運ぶとき大きなカメを頭にのせる、それがうまく考えられた運び方で…」。戦場と化したそこに確かに人々の暮らしが美しく営まれていたことを、明日死ぬかもしれない状況でしっかり観察し、故郷の風景と重ねて見ていたのだろうか。

 「戦争から生きて帰って来れるとも思わなんだし、こんなに長生きするとも思わなんだ。息子らにも戦争の話はしたことはない」と穏やかに笑うキク兄は、この春から病院のベッドにいる。

 80歳を越しても木を伐り田を曵き、山や川、人々の暮らしを丁寧に見つめてきたキク兄の話を、私はいつもうっとりと聞いていた。山、戦争、そして再び戦争の匂いがしてきた今。9月で95歳を迎えるキク兄の脳裏には、どんな風景が映し出されているのだろうか。

 ここに来て学んだことは山の暮らしの技術だけではない。今すぐ目の前の生身の人が歩んだ歴史と時代の変遷、戦争、そして人としてなにが大切なのかということ。私はこの人に会うために木頭に来たのかも、そんな気がしている。次は戦争を知らない私たちが、キク兄たち戦争体験者たちから受取ったものをこれからどう伝えていくか。デクノボーの私はいま一生懸命考えている。

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2017年04月14日

山の畑に行く理由

たいした作もできていないのに
私が山の畑に行く理由

アッコさんが毎日昇り降りしていた道が崩れてきて
歩く人がいないと無くなっていくことを知ったから

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宮本常一『山に生きる人びと』
「最初に道をつくる者は鉈や斧で木を伐り、一応人の通れるところをひらいた。
    信濃路はいまの墾道刈株に足ふましなむくつはけ我が背
という「万葉集」の歌にそのさまをうかがうことができるが、山中のこのような道のひらき方は明治時代までおこなわれていて(中略)今日も山中の仕事場などへ行くための道作りも、木を伐り、鍬で足をつくる程度の簡単なものだが、いったんそこが通路になると、人はそこを通り、次第に踏み固めていくのである。
そしてその道がいつまでものこっていくためには、人がそこを通りつづけなければならない。人がそこを通らなくなればやがて草にうもれて消えていく。」

「塩の道」もそう
そして特に四国では、一般の道を通れなかった「かったい病」の人たちの「かったい道」が縦横に走り、そこを通って四国八十八ヶ所もまわることができたとされる負の道もあったという

そこを歩いた人の足が作った道の記憶と記録
そこに確かに人の営みがあったということを足の裏に意識して
一歩一歩踏みしめながら

何もないと思ってたけど、芽を出していたニラを収穫してまた戻る道
十分晩御飯の一品になりました

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2017年04月04日

福島県昭和村から

僻地に住んでいると、
どこからも遠いから残されていることがたくさんあり、
また僻地に住んでいるから、
わざわざ訪ねてくださる方がいらっしゃっいます。

今日はからむし織りの里、福島県昭和村から、
織りと伝承活動をされている素敵なご夫婦が来てくださいました。
一生のうちで行けることはないんじゃないかと思うところからの
ありえない出会いがとてもありがたい限り。

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全国各地への取材や地元での特化した取材
念入りな調査、丁寧な分析、
そのなかから探し出そうとされている内容はとてもシンプルでいて本質的なところ。
私も地味に聞き書きを続けている中でなにを求めているかというと、
ノウハウでもセオリーでもないわけで、
じゃあなにかというとモゴモゴモゴ…とはっきり答えられないのですが、
大切なところは活字にできないところなのかもね、
してはいけないところなのかもね、
というところでうんうんと大いにうなづくのでした。

これから聞き書きを続ける上でたくさんヒントをいただきました。
猟師さんへの取材でのクマの種類のお話は
言われてみてこちらでも思い当たる節ばかり、いやもう節だらけ。
先日行った宮古島、宮古上布の栽培や織りの疑問もいろいろと解決。

伝統と産業という相容れないかたちについても考えました。
カジ蒸し以前、
生カジを繊維にしていたことを知らずして太布も語れないなということも。
これからもここに暮らしながら、
変わりなくほそぼそと、息長く続けていくことが大切なんだな。

太布庵では、持って来てくださったカラムシの繊維にみなさん大いに盛り上がり、
触っては眺め「へー」、触っては眺め「はー」
績んでみて「ほー」
これがカラムシなんやなあと
太布とは違い繊細で光沢があり美しい繊維にほれぼれしておりました。

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こちらが不勉強で十分な対応ができず恐縮でしたが、
まだ1.5mの積雪があるという昭和村、
今年は雪が多く農作業が遅れるということで来てくださったとのこと。
太陽元気ないな、桜が遅いなとぼやいておりましたが、
そんな太陽さんにも感謝です。

遠方からありがとうございました。
そしてとってもかわいい♪

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