2017年08月09日

「人と自然に育てられる」

(コープ自然派Table タブル「子育て特集号」 2008年1月号)           

 私はお世辞にも、一貫した子育て道を実践しているわけでも、立派な子育て論を持っているわけでもない。毎日、二人の子どもの言動に一喜一憂したり、些細なことにいらいらしたり、自己嫌悪に陥ったり。子どもの成長に関して人並みに悩み、どちらかというと、子育ての相談にのってほしい側だと思う。だからこそ、私は子どもが「田舎で育つ」ことを選んだ。

 10年前、大阪から徳島の最奥地、木頭村に家族で移住してきたとき、娘たちは5歳と0歳3ヶ月。ここには塾もなければゲームセンターもカラオケもない。あるのは全校で20人程度の小さな小学校と小さな商店が2軒、あとは胸が透くような清流と深い山々、そして元気で温かい村の人たちだ。

 ゆったり流れる時間の中で、予定に追われることなく、お金の使い方に気をもむ必要もない。野に咲く花をどれだけ摘んでも、大きな声ではしゃぎながら道の真ん中を歩いても、川で遊んで濡れたまま帰ってきても、あれこれ細かいことを言わなくても済む。子どもに子どもらしいことをさせてやれる開放感といったらない。子どもたちは、遊びきった顔で「ただいまー」と帰ってくる。これもまたいい。子どもはもちろん、晴れて私もストレス知らず。

 また、自然と向かい合って生きている山のじいちゃん、ばあちゃんたち大人を見て成長できることも嬉しい。畑仕事にしろ山仕事にしろ、木や土、水を巧みに利用する技術は、ため息が出るほど見事ですばらしく、不甲斐ない私の口先だけでの一言より、はるかに説得力がある。ゲームとも携帯電話とも無縁の我が子たち、ゲームの攻略法は知らなくとも、ばあちゃんの作った干し芋がどれほどおいしいか、じいちゃんの焼く炭が、どれほどの時間と労力をかけてできたものかを知っている。

 そんなばあちゃんに畑で大根をもらってきたり、軒に吊るしてある干し柿をもらったり、餅をついたからと持ってきてもらったりと、子どもたちは人の温かさを何の先入観もなく素直に感じて育ってきた。10年経って、村のじいちゃんばあちゃんは「大きいなったのう」と、我が孫を見るように目を細める。「子どもは宝じゃ」−ここに来てすぐ、聞いた言葉だ。本当にありがたいことだと思う。私は、ここの自然とここに住む人たちに子どもたちを育ててもらったと思っている。

 たとえ子ども時代のひとときでもいい。誰にも干渉されず自然の中で思い切り遊び、驚き、ときに自然は圧倒的であることを知ること、その自然を巧みに利用して生きている人に触れること、また自分たち子どもが愛されているという感覚がどれほど大切か、これまでに共に暮らした山村留学生(注・地元の北川小学校では町からの山村留学生を募集しており、私はスタッフとして関わっている)たちを見ていてもしみじみ思うことである。「木頭で暮らした1年が私の原動力だ」と成人した元山村留学生たちは言う。子どもというのは常に成長し、またゆっくりでも、蓄えた子ども時代の経験を糧に成長し続けるものなのだと実感する。

 子どもたちだけではない。私自身も、ここでの暮らしにどれほど感動してきたことだろう。それはあらゆる生命の力や美しさだったり、人の温かさや強さだったり、生きる力だったり。枯れ葉を集めての焼き芋や、ドングリ拾いや野いちご摘みに暗くなるまで夢中になっているのは、実は私の方だったりするわけで、育ててもらっているのは子どもだけでなく私も、なのだ。高度成長期以降の「便利な」時代に生まれ育った私は、思っている以上に根本から何も知らないことも痛感した。この小さな山村には何もないけれど、今、子どもや親の世代である私たちが必要としていることが何でもあるように思うのだ。

 効率やスピードばかりを追ってきた結果いびつに発展した社会。でも、少し下がって田舎から町を、社会を見てみたら、何らかの解決法が見えてくるようにも思える。歪んだ社会をこれから修正していかねばならない今の子どもたち、いや、大人だって遅くない。心身ともに足腰を鍛えるためにも、「田舎で育つ」ことを是非、オススメしたい。
posted by pon at 14:49| Comment(0) | 日記
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